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No.303 配慮と遠慮をはき違え

エッセイ「多摩川べりから」
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 毎月いつも平日の夕方に開かれる神奈川教区常置委員会は、幼稚園の仕事のために欠席が続いていたのだが、1月はまだ3学期始業式の前に設定されていたので、日頃のご無礼への謝罪の意味も込めて久々に出席した。  通常の議題が審議されていき、その最後に2月に開かれる教区総会に向けて二つの議案を常置委員会提案とするかどうかについて内容審議された。そのひとつは「原発事故被災者支援と脱原発に向けた働きに、祈りを合わせ、行動し、参与する件」、もう一つは「平和を求める沖縄の祈りに連帯し、日本全国の米軍基地強化とオスプレイ配備に反対する声明」だ。それぞれの提案理由の文言などにいくつかの意見が寄せられ訂正や追加・書換がされていったのだが、その中で二つの議案についてこういう意見が寄せられた。「もとより趣旨には賛成するが、現実的な取り組みの提案が弱い(生ぬるい)ので、反対する」というもの。どちらも同じ方の発言。  意見や態度を表明する自由はもちろん大切にされるべきだが、それにしても、こういった「反対」の表明方法もあるのか、と苦笑した。こういう場合大抵は「もとより」の部分をこそ反対したいのが本音なのだろうが、状況を見るとそれは口にできないので、いわば枝葉末節にあたる部分を批判し、全体を拒否しようということだろう。もちろん居合わせた大勢がその本音をすぐに感じ取ったゆえに、その発言に議論が引っ張られることはなかったのだが、例によって「何だかなぁ」と思わせられたのだった。  どうせなら正面から「意見の割れる事柄については教会は態度を表明しない。社会的な事柄には立ち入らない」と表明する方が良いし、またその態度をこそ尊重することがあって良いのだ。違う意見もあるということに、配慮は必要だが、だからといって遠慮することではない。  そのはき違えが頻繁な現実が「何だかなぁ」なのだが…。
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