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No.323 オリンピック・ラプソディ

 2020年のオリンピック。最後の一種が何になるのか…。テレビや新聞はその経過に色めきだった。東京招致の問題も絡んで異様としか思えない盛り上がりなのだが、私としてはなんだかなぁという感じが拭えない。
 最終的に残った三種目、その一番最初にコールされたのがレスリング。吉田選手をはじめレスリングに文字通りいのちをかけてきた人たちの喜びようは、無関係な私にも良くわかった。レスリングはオリンピック第1回大会以来継続されてきた伝統ある種目。レスリングの側に何か特別問題があってこういう憂き目に遭ったのだろうか。そうは思えない。
 そう考えたとき、わたしたちの歴史に深い影を落とす出来事が瞬時に浮かんだ。1942年6月26日のことだ。近代プロテスタント教会史に心を寄せる者にとって「旧6部9部弾圧」と呼ばれる出来事。旧6部9部の教会が治安維持法違反とされた。だが6部9部が問題だったのではなく、全体主義を行き渡らせるために、いわば見せしめとされた事件だった。
 IOCに査定される必要のない伝統あるレスリングが今回きわどい線上に置かれたのは、単なるIOCの権威付けとその強化のためではないか。従わなければつぶされると。野球とソフトボールは、同じ競技場を使いそれぞれ7回までの試合にするというルール変更を飲んだ。これを聞いた時、正直「そうまでするのか・させるのか」と思った。
 そのスポーツがオリンピックに属するためには「オリンピック憲章の遵守及びIOCの承認」が必要だとオリンピック憲章に明記されているのは事実。その上ショーとしての要素、見栄え、テレビにとっての都合の良さ、そして集金力。世界中が「権威ある」と認める大会を運営する上で必要なことなのかも知れない。だが、それが逆にスポーツそのものを規制して、発展があるのか。面白味・醍醐味が味わえるのだろうか。