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No.326 目に見えること、目に見えないこと

エッセイ「多摩川べりから」
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 法令で定められた「安全運転管理者講習」というのがある。11人以上が乗れるマイクロバスを使っている関係で、幼稚園長が「安全運転管理者」として警察署に登録されており、毎年この時期にこの講習を受けるのだ。今年は11時50分から始まって17時少し前までの5時間ほど、びっしりと内容が詰まった講習会だったのだが、会場となっている川崎市立労働会館ホールの椅子が座り心地悪く、例年腰や背中が辛い講習でもある。  いくつもの講義がある研修なのだが、その中でおもしろいことが語られた。「安全は目に見えないが危険は目に見える」「安全は耳に聞こえないが危険は耳につく」と。なるほどと唸った。  安全運転管理者は自社で運転業務に就く者を立場上指導しなければならない。その指導をどうするかという流れの中で出てきた言葉だ。運転業務中に何事もない、変化がない、異常がない状態というのは特別目についたり耳についたりしない。だから「安全」をどれだけ力説しても、なかなかピンとこないというのだ。むしろ危険な状態をしっかりイメージし可視化し、その音に耳を澄ますことが、結果的に安全に繋がるというわけだ。  これはキリスト教の世界にも通ずるのではないかと思った。よく「『神はいる』とは証明できない、が、『神はいない』とも証明できない」と言われる。わりと消極的な存在証明だ。それを先の『安全』の文脈に似せて積極的に解釈するなら、「神がいるゆえにこの世界は保たれ、それゆえに神がいることは目につかない、耳につかない」ということかも。  同じように、絶対平和主義者を「平和ボケ」と侮蔑する人たちにも言って聞かせよう。平和な状態というのは目につかないのだ。だが、それはあなたの目につかないだけで、不断の努力によって日々勝ち取られているのだ。それがわからない改憲主義者たちこそ紛れもない「平和ボケ」なのだよ、と。
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