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No.328 言への信頼・信仰

エッセイ「多摩川べりから」
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 「はじめに言があった」。ヨハネはとても印象的なフレーズから福音書を書き起こしている。言への信頼・信仰。  ところが、今、言葉への信頼が極めて希薄になっているのではないかと危惧する。この国でも、教会でも、そしてわたしたちの身近な暮らしに於いても。  参議院議員選挙が公示され、さっそく各党の党首たちがそれぞれ第一声を上げたとテレビでは何度も、詳しく、時には不要なことまで伝える。国政選挙ではないが、憲法が正面から争点になる選挙はこれまであまり記憶にない。それだけに「大事な選挙だ」と口を揃えるのだが、個人的にはなかなか気持ちが盛り上がらない。言葉への信頼が失せてしまっているのだ。  先日神奈川教区総会が開かれた。冒頭から様々な意見が飛び交う総会だった。しかし──そもそも無意味な発言だったがそれ以上に、発言の内容よりどの立場での意見かで全て決まってしまうような現状では、とても無駄な時間に思えた。ここでも言葉への信頼が失せてしまっているのだ。  「信頼が失せてしまっている」と書くと、その原因が自分の外にあるように響く。実際その原因はわたしではないと言って差し支えないかも知れない。だが、言葉に対して信頼しない/できないのは間違いなくわたしなのであって、それはつまりわたしが「信頼する」ということを止めてしまっている、諦めてしまっているからだ。  そのわたしに対して、冒頭のヨハネ福音書は言への信頼・信仰を語り続けている。  確かに、一気に大衆の向きを変える号令を発するような言葉を語ることはできないが、わたし(たち)には、それでも諦めることなく語り続けることが求められているのだろう。たとえ負け続けであったとしても。  言葉を挙げることを諦めてしまったら、世界はたちまち闇だ。
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