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No.330 事件報道の度に

エッセイ「多摩川べりから」
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 テレビでは連日広島・呉での事件を報じている。  16歳の少女の自首から始まった一連の事件報道だが──それ自体も十分驚くことであるのに──携帯アプリも絡んでいるためか、インターネット上に飛び交う情報も膨大になっているようだ。  ただ、こういう報道に接するといつも考えさせられることがある。「知る権利」とはいったいなんだろうということ。  事件は、それにかかわる少数の者たちの異常行動が引き起こしたと判断出来ることもあるが、一方、社会が生み出した事件も数多い。今回も、携帯アプリという要素がこの事件に大きく関わっているようだとなれば、そういう社会を構成している一人ひとりにも問題があったということかも知れない。その視点から、つまり、社会を構成している一人として、自分もまた加害者たり得る一人だという自覚の下で、事件の詳細を検証したいというのであれば「知る権利」が行使されるのはまだ意味があるだろう。  だが、今、この事件でテレビが連日報じている姿勢は、無関係な第三者の立場でいたずらに取り上げているだけにしか思えない。そして、視聴者はその面白可笑しい視点でのみこの事件を眺めることを強要される。そういうあり方でわたしは自分の「知る権利」を行使したいとは思わないのだ。むしろわたしの「知らなくても良い権利」を守って欲しいとさえ思う。  事件が突飛であればあるだけ、情報番組としてのうま味は増す。それはわからなくはない。わたしにだって野次馬的関心が皆無ではないと自覚している。だが、やはりもっとデリケートに扱って欲しいと思うのだ。せめて、関心がある者が幾ばくかペイしてでもそれに触れたいという以外には。  感じ方は人それぞれなのだから。一方的に「視点」を押しつけられるのは苦痛だ。やるせない思いだけが膨らんでいく。
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