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No.332 「平和ぼけ」について考える

エッセイ「多摩川べりから」
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 「平和ぼけ」という言葉は今でも結構使われているようだ。  この場合大抵は戦争反対を叫ぶ人やそういう考え方をする者たちに向けられる、一種の侮蔑表現だろう。今、我が国は一大事なのだそうだ。尖閣諸島や竹島の領有権を巡って中国や韓国が我が国の隙を突いてそれらを狙っているらしい。だから今は軍事力を強大にして、また集団的自衛権を発揮して同盟国である米国軍にも作戦を展開してもらう準備をすることこそが「ぼけ」でない証拠だということらしい。  書いているだけでばからしくなった。  「平和のために戦争する」と書いたら、たぶん国語のテストでは点が取れないだろう、論理矛盾だから(修身のテストでは満点かも知れない。これに「国体護持のため」と書き加えたらきっと最優秀賞だ)。だが、憲法改正の根拠は前述の、書くだけでばからしくなる事態を想定することからはじまるらしい。喧噪の中で憲法を変えることをナチスに学べとまで仰る。  あの戦争が終わった時、人々は何を感じただろう。何よりも「終わった」ことが嬉しかったのではないか──「やり方が悪かったから負けたのだ」と反省した向きも一部ではあったかも知れないが──。それが恐らく大多数の国民の世論だったのだ。そしてそれを根本に据えた新憲法の発布を、多くの者が喜んだのだ。その率直な感想を完全に忘れ(たふりをし)、勇ましい言葉だけが飛び交う状態こそ、「平和ぼけ」と表現したら良い。  「平和に慣れっこになって危機意識が薄れる」ことがどうして悪いのだ。その状態こそ、人々が心から念じたことだった。それを無かったことにしたいというのは、結局あの苦しみの中でもうまい汁を吸い続けた輩が、今一度濡れ手に粟を夢見ているからだけに違いない。  そういう連中の相手をするような暇人ではないつもりだ。
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