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No.334 見ず言わず聞かず考えず、という美徳

エッセイ「多摩川べりから」
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 子どもたちが夏休み後半に入って、さすがに中高生ともなるとあまり親が口うるさくならなくても良いことに安堵している。ただでさえ暑い夏、これ以上頭に血が上らないだけでも、ずいぶん救われる。  それでも、時々彼らの口を突いて出る「何でもイイ」「どうでもイイ」という反応を聞くと、その頭に血が上る。そんなとき、どうして血が上るのか考えてみる。すると、自分が子どもに何を願っているのか見えてくる。  何でも良くない、どうでも良くない人間になって欲しいのだ。流されることなく自分の意見を持ち、小さくともそれを実現してゆく勇気を持って欲しい。願ったものが何でも実現できるためにではなく、他者と協調しながら、それでも自分の意見と折り合いをつける術を学んで欲しい。そんなことをどうやら願っているのだ。  「はだしのゲン」が閉架図書扱いになったという。過激な描写が青少年に与える影響を考慮した某市教育委員会が校長会を通して要請したらしい。現場の学校もそれに従ったわけだ。子どもが自由に触れ、考え、自己を確立するという極めて当たり前に思われる成長過程を保証するのが教育かと思っていたが、どうもそうではないようだ。黙っていても親はレールを敷きたがる。露骨に、あるいはさり気なく。親心と言えば笑い話にもなるだろうが、教育委員会や現場の学校でさえそうとなると、これはチョット考え込む。  結局、人が自ら考え、自ら行動することを、この国の文化は望んでこなかったということなのかも知れない。レールの上をひたすらまっすぐ走ること、国が、お上が決めたことにまっすぐ従うことが、最も美徳なのだろう。  15日、首相は非戦の誓いも、隣国に対する反省と哀悼も丸ごと削除し、代わりにこの国の美徳を数え上げた。こんな美しい国に国民は喜んで従うべきだ、ということだろう。挙ってレールの上を走り抜け、と。
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