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No.343 何の為に生まれた?

エッセイ「多摩川べりから」
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 やなせたかしさんが亡くなったというニュースは、テレビや新聞でも、またネットの世界でも大きな悲しみとして、ニュースと呼ぶには些か古くなった今でも伝えられている。氏の発する言葉が多くの人の共感を呼んでいるからだろう。共感のメッセージは後を絶たない。  氏の代表作であるアンパンマンは、一番最初は中年のおじさんだったと聞いた。スーパーマンに違和感を覚えた彼は、「ひもじい人たちに食べ物を配る人こそ本物のヒーローだ」と信じ、そんな童話を書いたという。やなせさん自身が戦争体験者で、その体験が生んだ思いを人生の最後まで貫かれたのだ。  わたしは高度成長と共に生きてきたので、「ひもじい」という感覚をおそらく一度たりとも経験していない。どのような時にでも──あの93年の「大凶作」と言われた時でさえ──身の回りに食べ物はあったし、手にできた。だから例えばやなせさんたちとは決定的に違う世界を生きてきたのだと思う。  だけど、「何の為に生まれて 何をして生きるのか」という問いは、育ってきた時代やその時々の課題とは別に、人間がいのちを生きていくその時にどうしたって問われることではないか。違う世界を生きてきたとは言っても、問われていることに違いはない。何の為に生まれたのか、何をして生きるのか。  きっと人生は、その問いへの答えを探す日々なのかもしれない。何の為に生まれてきたのかを即答できる人生は幸せなのだ。それが見つからないからこそ──アンパンマンでさえ──悩む。  いや、悩むべきなのだろう。神学生たちと共にキリスト教概論を学びながら、彼らが「神学生である」というその事実に深く悩みつつ歩んでいることを、なんだか嬉しく思ったり、頼もしく思ったりする自分に出会うのだ。そんな悩みの中で歩むことこそ、実は大事なことなのかもしれない。人生の答えなんて、簡単に見つからないからこそ、宝なのだ。
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