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No.348 この季節に声に出せないこと

エッセイ「多摩川べりから」
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 キリスト教の暦では、今日の日曜日が一年の最後の主の日となる。一年の恵みを数え、主に感謝を捧げる日として意味深い。
 だが、牧師たちにとっては気ぜわしい季節の幕開けを告げる主日かもしれない。幼稚園で職員に「牧師にとっては厳しい季節が始まりますね」と労われた。わたしが「クリスマスいらない!」と叫んだからかもしれない。
 ただ、そう言うのは皮肉でも天邪鬼でもないれっきとした理由がある。キリスト教の歴史から見れば、クリスマスは最も新しく確定されたまつり。最も新しいまつりなのだ。ということは、教会にとってクリスマスがなくてもさしつかえがなかった時代が確かに存在するということ。だから「いらない!」とは短絡的だが、クリスマスがまるでキリスト教の中心のように言われたり考えられたりするのには、やはり小さな抵抗を覚える。
 さらに言えば、クリスマス物語はたいがいルカによる福音書をベースに、マタイによる福音書の話しも加えて成り立たせている。受胎告知と長旅、羊飼いたちはルカ、王と星と博士たちはマタイから採られる。これらが矛盾なくつなぎ合わされて、わたしたちのよく知るクリスマス物語になるのだ。だが、それぞれのオリジナルは、それが生み出される必然を持っていたに違いないし、それが担われるについても必然があったに違いない。矛盾なく混合されると、その必然も薄められてしまうということだろう。それもまたいかがなものかと思わされてしまうことでもある。
 てなことを言うのは、実は牧師になって以後だ。だからだろう、どうしても作為的自己弁護としか響かない。昔々あれほどキラキラしていたクリスマスの季節なのに、今では燦めきを感じられないことがままある。追い詰められているのだな。全国の同労者はこの気持ちを分かち合ってくれるだろうか。
 さぁ、終末主日の翌週はアドベントの始まりだ。
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