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No.361 嗚呼、五輪

エッセイ「多摩川べりから」
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 スノーボードハーフパイプで二人の少年が勝利を確定したとき、あるいはその後のフラワーセレモニーやメダルセレモニーの時、はにかんで喜びをなかなか表現しない姿を不思議に思った。
 だが、不思議に思っている自分を冷静に見ると、なんだか滑稽だ。わたしの中に「メダリスト」が「喜びを爆発」させるだろうことが、規定の姿だという強力な思い込みがあるということではないか。そしてわたしの思い描いたとおりに事が運ばないことを訝しがる。なんだか世界は俺様が中心で回っているかのようだ。そういうことを一番厭がっていながら、あっさりとそれを遠くに押し流す。オリンピックという魔物の力。わたしもその力にすっかり飲み込まれていたということだろう。
 「真央ちゃんの背負ったものの大きさを感じる」とは、フィギュア女子SPで不本意な16位となった彼女の姿に対する、あるテレビ局のスポーツ解説者の言葉だった。ひょっとしたら多くの人がそう思ったかもしれない。だが、本当にそうか。むしろ言及されるべきなのは、わたしたちこそが彼女に極めて重いものを、無理矢理背負わせてきたということではないか。だが彼女は16位というメダルには絶望的な状況になったとき、ひょっとしたら初めて素の自分に戻って、一番やりたかったことがやれる状況を手にしたということではなかっただろうか。その結果世界初のフリー中八つのトリプルジャンプ成功を含むパーソナルベスト更新へと繋がったのだ。
 スポーツ、特にオリンピックを国威発揚の場としたい灰色の思惑や、何はさておき経済効果と叫びたい誘惑はいずれも論外としても、わたしたちも多かれ少なかれ、自分の内側に普段は隠しおおせているものを、つい爆発させてしまう恰好の場が、あの夢と狂乱の世界なのかもしれない。6年後、わたしはまだ冷静でいられるだろうか。
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