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No.366 だれが/なにが悪かったのか〜その2

エッセイ「多摩川べりから」
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 人を育てることに手抜きが出来ないのであれば、当然かかるものはかかる。だからこそ、受益者負担はあったとしても、賄いきれない部分は社会が喜んで負担する。その分、例えばまだまだ使える市庁舎はもう少し古いまま使うとか、甘い見積もりで「収益が見込める」などとお手盛りの結論でハコモノを次々とつくるのを止めるとか、つぎ込んでもつぎ込んでも改善しない原発過酷事故に懲りて、同じようなものをもうこれ以上つくるのは止めるとか、それこそできることはたくさんあるではないか。逆に、儲かることは積極的に民間に行わせ、どんどん儲けてもらってどんどん税金を納めてもらう。大企業にだけ減税するのは、為政者にとってはおいしい話かもしれないが、圧倒的多数の一般人には無意味な政策だ。
 子育てにしても選択肢を増やしてあげること。いまはなにがなんでも女性を社会進出させる方針で、まるで専業主婦は社会の敵みたいな論調だが、子育てに自分のライフワークを見つけることをちゃんと応援する。あるいは男も女もせめて8時間働いたら十分、事情を与して短時間労働でもその分ワークシェアによって就労者を増やしトータルで成果を上げる方向にシフトする。そういうことを社会全体の目標として目指せないものだろうか。
 保育に携わる者としては、子どもをどこに預けるかは最も重大な関心事だと考えるのだが、今回の事件はそこが一番心許なかったのが残念でならない。それが非常識だと詰る感情もなくはないが、一方、そういうサービスしか選べない現状も確かな事実だ。だから余計に悲しく、重苦しい。
 この事件が指し示しているものはいったい何か。それは本当は何を大切にしているのかという社会のホンネではないだろうか。いのちを育もうというのか、鴻毛よりも軽いと考えているのか。「女性の社会進出・女性の活用」という聞こえの良い言葉のウラのホンネが暴露されたのではないだろうか。
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