ようこそ、川崎教会へ

No.370 記憶か記録か

エッセイ「多摩川べりから」
元のサイトで完全版を読む
 26日(土)、川崎・鶴見地区総会だった。これに限らずこの季節には世間の様々な組織が「総会」を開き、あるいは総会に向けた実務委員会や役員会が開かれる。年度の初めは前年度の終いの時期でもあるわけだ。
 様々経験している中で、小さい組織ながら結構活発な議論が行われるのが教会の総会ではないかと感じる。「真理」などを扱っているのだからそうなるのはある意味必然かもしれないが、こんな側面にもクリスチャンの生真面目さが垣間見えるということではないだろうか。
 昔、神学生時代に出席していた教会の総会が強く印象に残っている。働き盛りの年代が多くいる教会だったからだろう、教会総会も議論百出で、時には激論にもなったのだが、出される意見にいちいち反論する一人の信徒がいたのだ。彼は総会に手ぶらでは参加しない。過去数年の議案書や議事録を必ず手にしている。そうして上がる意見について、それまでの総会でどのような意見が出されたのか正確に発言することで悉く反論しているのだった。若いわたしなどにとって彼は文字通り目の上のたんこぶのような存在だったが、彼のその姿勢から学んだことは多かった。
 人は簡単に熱くなる。だがそれは同時に、人は簡単に忘れてしまうということでもある。だから記憶は当てにならない。むしろ力を持つのは記録だ。それも何年にも亘る歴史書を持っている必要はない。せいぜい前回・前々回程度で十分。つまり2年ほど前の議論とその経過、そして導き出された結果について案外簡単に人は忘れるものなのだ。
 この事は単に相手を打ち負かすテクニックとしてではなく、人間の思考について大きく考えさせられる出来事として強い印象を残したのだった。イスラエルが祭りの度に民族の歴史を繰り返し語り続ける、その意義にも通じる。
 さぁ、教会総会だ。
もっと見る