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No.376 合同礼拝

エッセイ「多摩川べりから」
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 今年のペンテコステはカレンダーの巡り合わせで「子どもの日・花の日」と重なった。聖餐式はもちろん、洗礼式まである。合同礼拝に集う子どもたちはキリスト教の中心儀式を一気に味わうことになる。「なんだかわからないけれども大事なことをやっているようだ」と感じてくれるだろうか。
 キリスト教、特に福音主義キリスト教は説教と呼ばれるメッセージが語られることに中心を置く。つまり「言葉」が中心になる。するとどうしても、イメージするとか感じるとかではなく、理解するという必要が生じてしまう。だが、神を「理解する」ということが本当に可能だろうか。あるいは神を「言葉で論証する」ことは本当に可能だろうか。むしろ神は「感じる」もの、その存在を感じるものなのではないだろうか。
 故伊丹十三監督の「たんぽぽ」という映画がある。「ラーメンウェスタン」と呼ばれた娯楽映画だ。今賑わっているがやがて追い越せるライバル店を視察にいった主人公たちに、かのラーメン店主が叫ぶ。「素人にウチのラーメンの味が分かってたまるかぃ」。すると主人公のたんぽぽが切り返す。「だってね、おじさん。ラーメン食べに来る客はみんな素人よ。素人に分からないラーメン食べさせてどうするのよ」。
 このやりとりにハッとさせられる。「ラーメン」を「福音」に置き換えたらどうだろう。わたしのやっていることは、かのラーメン店主と同じなのではないか。極めて滑稽なことを、滑稽と気づかずに、大きな勘違いをしたままでいるのではないか…。そんなことを考えさせられるのだ。
 子どもたちにとっては洗礼式も聖餐式も、その意味するところはたぶんわからないだろう。でも、それでいい、いやそれがいいのだ。「何かわからないけど大切そうなこと」だと伝われば、それで。
 この礼拝は、わたしにとっても新鮮な時間となるだろう。
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