ようこそ、川崎教会へ

No.377 花の日訪問に思う

エッセイ「多摩川べりから」
元のサイトで完全版を読む
 花の日の礼拝が終わって暗くなる前に、施設や病院に入っている方々を見舞った。わたし自身はともかく、親がそろそろそういう場所にお世話になってもおかしくない年代。きれいで清潔な環境の下、親切なスタッフにお世話されている入居者の姿に、いつしか自分の親を投影していた。
 訪問者のためだろう、廊下には今週のメニューや月間の予定、日毎のプログラムが記されてある。美味しそうなご馳走の写真、入居者の方々が取り組んだ作品、行事に参加した記念写真もある。どれもスタッフの心を込めたお世話の様子が目に浮かぶ。
 だが…。人はお世話されて尽くされて暮らすことで本当に幸せになるのだろうか。むしろ誰かのために、何か出来ることを考え、そのために体を使う時こそ、生きるクオリティを高めていくとに繋がるのではないだろうか。だがおそらく施設にいる限り、利用者は必ず世話される対象でしかないか、あるいはせいぜい日ごとの製作ぐらいのことしか取り組めないのではないか。もちろんそれが悪いとは決して単純には言えないのだが。
 お年寄りは「何もできなくなった」と言う。「祈ることしかできません」とも。それに対して「それで十分です」と答える自分にいつもなんだか違和感があった。わたし自身決して信仰深い人間ではないことが違和感の大部分ではある。だが、それだけでない気がする。
 かの人たちは慰められたいからそう言っているのではないかもしれない、ということだ。むしろ、生きている限り誰かのために命を燃やしたいという本能の叫びがそこに込められていたのではないか。それを狭く嘘くさいわたしの信仰理解の枠に無理やりはめ込んで「十分です」と応えることで良しとしてきてしまったのではあるまいか。
 まことに人間は、人を思い人のために生きてこそ、なのだと思う。
もっと見る