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No.390 私家版「メディア批判」の批判

エッセイ「多摩川べりから」
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 時々「真実ってなんだろう」と思うことがある。
 まぁ、宗教家(「宗教」で飯を食っているという意味以上の意味はありません)の端くれとして、「真理」などという厄介なものと時折対面せざるを得ない自覚はある。だがそれとて、自分が「真理」を得ているとか、「信じればすべてが解決する」なんて、一歩高いところから発言するなんてことは絶対にできない限界の中でのことだ。
 自分の五感で感じたことがすべて「真実」と言い切るほど、ことは簡単ではない。人間の持つセンサーは、人間が生きる上で必要且つ最高の感度だと思う。だがそのいわば生のデーターを解析する段階で、わたしたちの脳はいとも簡単に錯覚するし、そもそも判断の基となる参照事項は最初から自分に備わったものではないし。それこそ何気なく蓄積してきた情報や、誰かから教わったり、独学といえば聞こえはいいが、様々なメディアを通して脳のあちこちにデフラグしているものに過ぎない。それらを参照して「これが真実」と言っているに過ぎないわけで、厳密に中立に「真実」などを抽出することがどれだけ不可能に近いか、と思わざるを得ない。
 でも、感じたのは確かに自分だし、判断したのも確かに自分であって、「感じた」「判断した」という事柄の真実性は、かろうじて主張されていいだろう。だが、せいぜいそこ止まりなのだ。
 社会は、そういった「そこ止まり」の集団である。その中で、ある集団を導くのであれば、むしろ「そこ止まり」ということをことさらに意識してこそ責任を全うできるのだと思う。哲学の境地は「無知の知」に至ることだと聞いたが、けだし、人とは皆そういうものなのだろう。
 だからこそ、大新聞・メディアも慎重であるべきことは言うまでもないが、でも、50歩100歩(目くそ鼻くそ)であることも忘れてはならないのでは?
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