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No.393 途上であること

エッセイ「多摩川べりから」
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 入園説明会で牧師・園長は川崎頌和幼稚園のことを「キリスト教保育の幼稚園」と紹介する。
 本来ならその原点であるキリスト教を説明する必要もあるのだが、短い限られた時間の中では一言、「愛の宗教」だということだけを話す。
 キリスト教保育の根本原理は「愛」であって、しかもそれは例えば保育者が既に愛に溢れていて十分に人を愛することが出来るという意味ではなく、むしろ全く反対に「愛することが出来るか、愛することを選び取ることが出来るか」とのチャレンジに毎日毎時間毎分立たされ続ける者として、という限界の中でのこと。「愛を目指す」あるいは「愛に向かう途上」という自覚こそが必要且つ大切なのだとわたしは信じている。
 途上であることはだから意味があるということだ。自らを省みて、決して一つも手中にしていないとしても、そこに向かっているのかどうかを確認し続けることにこそ意味がある。逆にさも既に手中にしているかのように振る舞うことがどれ程傲慢なことかとも。
 「民主主義は永久革命である。世界中で未だかつて民主主義を完成した国はない。」とは丸山眞男の言葉。常にプロセスの中にあるという強烈な自覚こそが、民主主義を推し進める。
 日本基督教団は合同教会である。それもまた常にプロセスの中にあるということだろう。だが、「合同」を「した」と過去形にする者たちが、ある種のファシズムのように力を振るっているのはどういうことだろうか。途上であることを捨てた者の行き着く先は自らを神とする傲慢でしかない。
 わたしたちは途上で良いのだ。むしろ途上である、プロセスの中であるという自覚とそこから生まれる選択こそ最も重要なのである。そのことを、あぁ私たちは幼子から示されるのだ。「幼子のようにならなければ…」。
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