ようこそ、川崎教会へ

No.398 語り継がれ聞かれ継がれ

エッセイ「多摩川べりから」
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 先週は永眠者記念礼拝。教会でお預かりしている永眠者のご遺影を並べて、彼女ら・彼らを思い起こしつつ礼拝を捧げた。昨年のこの礼拝からの1年で天に帰られた教会員が3名。この3人は真ん中の机に並べる。わたしが川崎に来て以来の方々も既に9名となった。
 川崎教会は終戦の年の川崎大空襲であらゆる記録が礼拝堂共々焼失してしまった。だが、かろうじて人々の記憶をつなぎ合わせて、またバプテスト連盟などにある公的記録の力も借りて、教会の歴史「川崎教会のあゆみ──百年をこえる神のみちびき」を発行した。この発行に尽力された松島美一さんが、永眠者のお写真を出席者に紹介されるのがこのところの通例。昨年松島さんがこ記念礼拝に出席できなかったおりに、紹介の文章をまとめてくださって、当日司式者の武田さんが代読したものがあるのだが、こういった記録文書は大変貴重なもので、今後も活かされるに違いない。
 大切なこと、忘れてはならないことを覚えておくために必要なことは、何度も何度も語られ、聞かれることにある。口伝伝承が長い年月を経て尚語り継がれているのは、「語る」ことと「聞く」ことに意味を見出してきたからに相違ない。だがそれはとても脆い。「面倒だ」「聞き飽きた」の圧力は自分の中でも少なからぬ力を持つ。それを敢えて押し込めて続けるには、本来相当な意志が必要なのだ。
 「同じことの繰り返し」が相対的に低くされ、新しいこと、より新しいことに素早くアクセスする能力が──相対的に──高くされる時代であればこそ、愚直なまでに同じことにこだわる、こだわり続けることには逆に意味がある。いつかは「古典」と賞される、かもしれない。
 あ、いや、説教のネタに困ってへりくつを言っているのではないのですよ。語り継がれ聞かれ継がれる意図を…。すみません(読者よ、悟れ)。
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