ようこそ、川崎教会へ

No.410 30年後

エッセイ「多摩川べりから」
元のサイトで完全版を読む
 「30年後の自分を考える」。所用で乗ったJR電車のドアに貼ってあった学習塾の広告だ。「30年後の社会を動かすのは間違いなく今の小学生たちだから、30年後を思い描きながら今を生きよう、◯◯塾で」みたいなコピーがついている。ちょうど今週幼稚園は新入園児準備登園があり、その席で「今の時間は今で完結する。今の幸せを実感しながら積み重ねて行けることこそ生きる意味ではないか」と話そうと考えていたが故に、まるで真逆のキャッチコピーがやけに目についた。
 わたしは自分の子どもたちに「そんなことをやっていて次の◯◯は大丈夫なのか」と言い続けてきた。次に備えるという生き方を身につけることこそお前のためになる、という発想だった。なんと子ども思いの父親ではないか。だが、よくよく考えてみると、本当は誰のためなのか、実は口にするほど自明なことではなかったりする。子どもが宿題をしていかなくて、でも困るのは親ではない。子ども本人だ。「お前のため」が実は親である自分のためだったりする。見栄やプライドはいつまでもつきまとうものだ。
 いっそそういうものなのだと視点を変えて考えてみるとき、例の広告コピーはちょっとおかしいと気づく。30年後の責任は子どもにあるのだろうか。彼らに負わせる前にまず今社会を動かす者が責任を果たして後、バトンタッチしなければおかしいのではないか。だが今、一体誰が30年後の社会を明確に提示し、そのヴィジョンに責任を負うことができるだろうか。政治の賞味期限が長くても2年ほどになっている今、一寸先とは言わないが、5年先でも読めない時代。だが問題がどんどん先送りされていっている。全ては次の世代へのツケ。それで「将来に備えて勉強しろ」はないわなぁ。
 「あとは頼む」と自信と愛情と信頼をもって事柄を受け渡す。言うほどには簡単なことではない。でも、だからこそ。
もっと見る