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No.413 学ぶことの意味

エッセイ「多摩川べりから」
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 先日幼稚園で講演された堀真一郎先生は、こんなことを仰った。
 「小学校のドリルにこんな問題がある。『周囲80メートルの池に5メートルおきに桜の木を植えます。桜の木は何本必要ですか。』。答えは16本ですか?」。そう思う。だが堀先生は「子どもの村学園の子どもはそうは答えません」と。何故か。
 桜の木をどこに植えるつもりなのか。池の周囲だとすればそこはいつもひたひた水が押し寄せてくる場所。そんなところに木を植えることは出来ない。少なくとも何メートルかバックする必要がある。だから答えは「16本以上」。算数が机上の計算であって生活の実体験に結びついていない。学校の授業はそれで良しとしている。だが本当に学ぶということは、生活に活かされてこそではないか。そんなお話しだった。
 もちろん理論家も必要だろう。現実を超越したところから新しい世界を切り開く人たち。だが、それはごく少数だ。そうでない人たちは学んだことを用いて社会がよりよくなるために活かされている。そのためにこそ学んでいる。逆に言えば、生活や社会がよりよくなるということにしっかりと脚を据えていれば、下手な論理にミスリードされなくて済むということでもある。
 国はいつでも国に都合の良い人をつくり出そうとする。だから「教育」の分野に介入しようとする。第一次安倍内閣時代にそれはほぼ完成してしまったように思う。今、教育の独立などまるで叫ばれなくなっている。昔人生の大先輩が言っていた。「あの頃優秀な友人はみんな軍隊に行った」。それは強烈な自己批判でもあった。もちろん社会に抗うことなど簡単なことではないし、ましてあの時代ならなおさら。だが、だからこそ、今本当に考えなければ、またしても後悔のみ残す事態に陥ってしまわないだろうか。
 子どもに日々接する者としての責任を思わされる。
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