ようこそ、川崎教会へ

No.415 勉強させてもらいました

エッセイ「多摩川べりから」
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 JR根岸線・京浜東北線の石川町という駅がある。沿線に横浜中華街や元町などの観光地、たくさんの学校があって、そして寿町の最寄り駅。そこの電光案内表示にある日こんな言葉が登場し、静かに流れた。「卒業生の皆様 卒業おめでとう! 皆さんの『夢』『希望』『お世話になった方への感謝の気持ち』をこれからも一生、大切に…。忘れそうになったらいつでも石川町駅へ…。これからもずっとお待ちしております。」。
 幼稚園も今週卒園式。ここも卒園した子どもたちが幼稚園に遊びに帰ってきてくれる伝統がある。だからかも知れない、この駅の思いと同じ思いをわたしたちもまた子どもたちに対して思っている。「いつでも駅へ、いつでもこの幼稚園へ」と。逃げ場があっていいじゃないか。人生勝ち組ばかりじゃない。辛いときもある。ふっと癒されたくなるときだって。子どもだからとか大人だからとか、いい年してとか、あちこちブレーキだらけだけど、時には全部放りだして、あの頃の風に吹かれに、あの頃の景色に戻っておいでよ。と。
 教会に「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」という聖書のことば(マタイ11:28)を記してあるところがある。だが、実は教会は「だれでも」はマズかったりする。もちろん牧師は宗教者だからあからさまに困った顔は見せない。いつでも穏やかで相手に安心感を与えられるように訓練されている。だが、「だれでも」は決して本心ではなかったりする。残念ながら。そういう姑息な人間であるから、なおさらこの駅の電光案内表示には打たれる。教会は(牧師は!だよね )この駅に勝てない。決して勝てない。単に勝負の話ではなく、この境地に立てない。なぜか。持てるものが邪魔をするのだ。単に素通りするだけの場所、それに徹している駅という場所に、神学という名の理屈が最初に来る牧師は絶対に勝てないのだ。いい勉強をさせてもらった。
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