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No.426 情報処理

エッセイ「多摩川べりから」
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 先週おそらく多くの人が、改めて(あるいは初めて)読んだ歴史的文章がある。ポツダム宣言。20日の党首討論で共産党志位和夫委員長から「ポツダム宣言では、日本が行ったのは間違った戦争だったと明確に記している。総理はこの認識を認めないのか」と問われた安倍首相が「ポツダム宣言は、つまびらかに読んではいないが、日本はポツダム宣言を受け入れ、戦争が終結した」と答えたことがネット上では大きな話題となったためだ。
 話題になっていること、つまり「総理大臣」が「ポツダム宣言」のような重要な歴史文書を「つまびらかに読んでいない」でいて「戦後レジームからの脱却」と言うのか、などの是非は置いておくとして、どんな情報をどう選択してどう処理するかは、実はわたしたちの小さな生活の上でさえ大きな問題なのではないかと思わされたのだ。
 自分の周りには情報があふれかえっている。重要なものもそうではないものも、急を要するものもそうではないものも、種々雑多な情報が溢れている。そしてその選択は必ずしも「重要だから」「急を要するから」順位が上がるわけではない。さらにそれぞれの情報をパソコン上で処理するとなると、それが深夜であれ早朝であれお構いなし。もし電話なら相手の生活に遠慮してかけられない時間だろうに。携帯が「チャリン」と鳴りメッセージが届くと、それを読んですぐに返信を返さなければならない強迫感まで生まれる。
 発信/受信が手軽に出来るということは、実のところ莫大な無駄や浪費を生んでいるのではないだろうか。単なる金銭的なコストとは別の、肉体的・精神的コストが。
 我が中3生は、テレビをつけながらゲーム機をいじり時折携帯メールを処理している。だがわたしはそれを嗤えない。「仕事」と称してはいるが同じようなことをしている。情報処理病だな。
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