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No.429 「誰か」を思うこと

エッセイ「多摩川べりから」
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 6月の第2週は「子どもの日・花の日」と呼ばれる。19世紀中頃アメリカで始まったとされ、1866年にメソジスト年会で「6月第2日曜日」と正式に定められたという。特別な礼拝の形式は今日本中のあちこちでも取り組まれている様子とほとんど変わらないだろう。礼拝堂を花で飾り、礼拝後には様々なところを訪問する。日本では梅雨の季節でありまた花にとっては端境期でもあり、少し難しい現実はあるのだが、それでも、教会だけでなく、キリスト教の幼稚園などでも行われて、とても一般的な行事になっている。
 そのスタートは極めて宗教教育的動機だったようだ。「野の花を見るが良い」という福音書の言葉があるように、花を神の恵みの顕れとして礼拝堂に飾ることを通して神を賛美し神に感謝することを教えるという意図だった。
 キリスト教の牧師として四半世紀、うち15年以上幼児教育に携わってきたが、わたしにはどうしても「意図を持って教育する」という姿勢が馴染めない。わたしはそもそも教育には向いていないのだ。だが、例えば子どもたちが誰かのために花を用意し、実際それを抱えて誰かのところを訪ねていくということは、こちらの意図を遙かに超えてそれ自体に大きな意味が生まれるように思う。
 「誰か」を思う。これが現代では特にどれだけ大変なことだろうと思う。あるいは極々小さな輪の中での「誰か」以外に想像も出来ない時代ではないか。大人たちの狭量さが、そのまんま世代に受け継がれていくのだ。だが、花の日の行事はそんな狭量を打ち壊す力がある。そして子どもたちは実際に存在をとてもとても喜ばれる経験をする。自分が間違いなく誰かの喜びになっているという事実に直面する。そんなことは、意図しても出来ないことだ。
 平和とは調和である。守ることではなく、つくり出すことからしか始まらない。その想像力・創造力は、こういう経験から生まれてくるのではないか。
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