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No.435 ある弁護士さんと

エッセイ「多摩川べりから」
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 ある市民集会で一人の弁護士さんと出会った。
 雑談の中で、「自分が弁護士になったのは、一人の人ととことん向き合って、その人の助けになれると思ったからだ」と、静かにしかし熱く思いを語られた。
 数年前、社会事業同盟主催の中堅職員研修会でチャプレンとして聖書研究を主催したとき参加者が「結局イエスは一人の人を癒しただけだった。そんな方法では恐ろしく時間がかかるのではないか」と疑問を投げかけてくれた。まさにその通り。そしてイエスはその方法以外の──もっと多数に効率よく福音を提供するような方法を採らなかったのだ。そのイエスの姿勢を、弁護士さんの言葉の中にはっきりと感じ取った。彼は続けてこうも言った。「わたしは司法試験に合格した。それはちょっと高慢な言い方だけど『選ばれた』ということだ。それを自分のために使うことは許されないと思う。他者のために選ばれたのだ。牧師さん、あなただってそうでしょう。」。あぁ、なんということだろう。召命感、まさに召命感ではないか。
 一人から始める。目の前の一人から。自分の目の前のことに、与えられたフィールドで、与えられたすべての出会いに誠実に向き合う。そこから始める、そこにこだわる。それこそがいのちを召し出された者として課せられた務めではないか。
 本田哲郎神父は「低みに立って見直す」ことこそ「悔い改め」であり、それは必然的に歩みを起こすことへと繋がっていると仰る。選ばれて司法試験に合格した弁護士さんはその選びを用いて「低みに立った」ということだろう。「大所・高所に立つ」のが政治だという方もおられるが、政治といえどもそれは違う。低みに立つこと以外に人は進むべき道を見いだせない。そうしないと誤ってしまう。
 偶然だったが、しかし与えられた出会いだった。
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