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No.453 「待つ」期節がやってきた

エッセイ「多摩川べりから」
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 幼稚園新入園児のための第1回準備登園では、折しもアドヴェントの季節であることからいつも「待つ」ということを主題にして話しをする。
 わたしたちは「待たない」文明に慣らされてきた。東京と名古屋を40分で結ぶリニアモーターカーが走るという。Amazonは注文から1時間で配達を完了するシステムを運行するらしい。「待たない」ということに慣らされると「待てない」ことになる。だがその一方で、原宿で新しいポップコーンの店がオープンすると2時間行列でも待てるという。
 自分が主体なら待てるが、他者が主体なら待てないし待ちたくない。それが正直なところだろう。他者はたとえ家族であっても、いや家族だからこそ、近いからこそ、そのために待つことが苦痛になる。
 でもクリスマスを望むこのアドヴェントの季節が毎年巡ってくる。どうしても、強制的にでも、「待つ」季節を歩ませられる。だからこそ意味があるのだ。「待つ」ことの意味を少し深く考えるときとして、この期節はあるのだから。自分のために握りしめた手を、少し開くクリスマスを、備えて待つ。そんな期節だ。
 ローマ法王は27日、ケニア・ナイロビのスラムを訪れ、「清潔な飲み水や電気がない都市周辺部に貧困層が追いやられている状況について「恐ろしく正義に反する」「新しい植民地支配の形」と語り、貧富の格差に激しい怒りを示した」という。日本でも貧困の陰が次第に大きくなり、特に社会的弱者と呼ばれる人たちにそれが深刻になってきている。例えば母子家庭では貧困率が50%を超えた
 そういう現実社会に、主の来臨を待ち望む期節がやって来たのだ。それがどういう意味なのか、誰にとっての希望なのか、わたしたちは襟を正して(首を洗って)この期節を迎えねばならないのではないか。
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