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No.456 立ち位置を考えさせられる季節か

エッセイ「多摩川べりから」
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 昨年この週にこの欄で「立ち位置」について考えてみた。そこにこんなことを書いている。
 『幼稚園のクリスマス会は、もちろん子どもたちが主役なのだが──そして主役は自由闊達で構わないのだが──そこにいる大人たちの立ち居振る舞いは気にかかってしまう。』
 子どもたちの自由闊達を支援するために、大人たちは自由闊達であってよいのか。よくシミュレーションされた立ち居振る舞いと、それにもかかわらず引き起こる事柄への臨機応変且つ的を射た対応という、相反する要求があるのではないだろうか。それを自由闊達とは表現できない。
 「ありのままで、そのままでよい」という言葉は、本当に奥が深いと思う。そしてだからこそ、簡単ではないと思う。子どものありのままを「良し」として受け入れるために、オトナが自分を抑制する必要があるうちは、本当の意味での「ありのままで、そのままでよい」という状態とは言えないのかも知れない。だが、では教育の営みの中で目標設定をするとはどういう意味を持つのか。それが「ありのままで、そのままでよい」と相反するように見えるのは、本当に相反するのかそうではないことなのか。見せるためのことではないとしても、結局はここに至るまでの道のりが深く影を落としているのである以上、日々の、一日一日の積み重ねこそもっともっと大切で意味あるものだと自覚する必要があるし、当然そうしているはずなのだが、釈然としない思いが残るのはなぜか。そんな様々なことがつらつらと頭をよぎる。
 こんなことならもっとしっかり学んでおけばよかったのだが──そしてそれはいつでも言い訳にしか過ぎないのだが──、思い巡らしているばかりでなかなか答えが見つけ出せないでいる。考え込むうち、大切な日々の歩みをおろそかにしている始末だし…。
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