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No.460 食卓から文化

エッセイ「多摩川べりから」
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 ここ数年、「年末年始の食卓」に関心を持っている。特に大晦日の夕食が。というのも、聞くところに因ると「大晦日だからといってそんなに変わらない」とか「年越し蕎麦」という答えが多い気がするのだ。個人の範囲は統計上意味のある数字にはならないだろうから、その多寡をもって判断してよいとは思わないのだが、それでも、聞こえてくることにちょっと驚いている。
 わたしの実家では、大晦日はごちそうだった。そんなに大それた大ごちそうだったわけではないが、子ども心にも「特別な日」を意識する夕食だった。食後は座卓にみかんと落花生が置かれる。落花生は菓器に盛られむいて食べるわけだが、殻も渋皮もその菓器に戻すのが掟。だんだんに殻と渋皮だけになるが、宝物を見つけるように殻の中から実を探し出すのが他愛もなく楽しかった。そうこうしているうちに除夜の鐘がテレビから聞こえだし、その音を聞きながら年越し蕎麦を食す。そういう大晦日だった。
 妻の実家も大晦日はごちそうだったという。そしてやはり、夕食とは別に年越し蕎麦を食べるのが習慣。だからかも知れないが、なんとなくそういうものだと思っていた。だが、そうではない家庭も実はたくさんあったのだ。そのことにいちいち驚くし、新鮮だった。かといって我が家の習慣を変えることはないのだが…。
 つまりそこにある種の「文化」を見るのだ。年末・年始などは文化の集合だと思う。そして便利になることと引き替えに、そういった文化をだんだんと顧みなくなってきている気がするのだ。習慣は違っても、いや違っているからこそそれが文化だが、全くの平時と同じでは「文化」を感じられない。そしてそれはなんだかもったいないし淋しい。
 幼稚園は賑やかに餅つきを行った。これもまた文化だ。使われる什器はつまり文化財だ、などとかまどの煤にまみれながらつらつら思ったのだった。
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