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No.470 「内助の功」ねぇ?

 夏の参議院議員選挙に立候補が取りざたされていた方が、個人的事情を暴露されて、テレビを賑わしている。なんだかワイドショーは月替わりで次々とスキャンダルを暴き出している。レストランなら月替わりメニューは嬉しいものだが、スキャンダルは食傷気味。いい加減うんざりだなぁ。
 ところで、この方の謝罪文というのが紹介されたのだが、そこにご本人はともかくお連れ合いの女性も謝罪したということが事件以上に騒動になった。非常に冷静な判断をする人がいて、「妻も謝罪するということは、すでに政治家、少なくても候補者として準備が整ったということだ」と論評する。なるほど、そうも言えるのかと改めて思った。
 例えば選挙で当選し、事務所で喜びの姿がテレビに映るとき、当選者の隣には同じように頭をさげる妻の存在がある。当選に至るまで十分に内助の功を発揮したのだ、晴れの舞台に並んで栄誉を受けるのはいわば当たり前に見える。だが、「内助の功」とは一体なんだろう。そこに要求されていることはなんだろう。
 例えば教会という現場でも、牧師の妻はまるで政治家・当選者・立候補者の「内助の功」たる「牧師夫人」を務めさせられる場合がある。もちろん、それをご本人が望んで行っている場合は充分にある。そのことで自己実現する人は問題ない。だが、望んでいるわけでもなく、しかし要求されるとしたら、それはとても辛いことに違いない。政治家であれ、牧師であれ、その他ありとあらゆるところで「内助の功」が外圧によって要求されるところには、少なくとも「自由」や「喜び」はないのだ。
 冒頭の候補予定者の妻が一体どちらなのか知るよしもない。だからこれが自発的な行為であることを期待する。だがもしそうでなかったのだとしたら、ほじくり返したことを茶の間に流さないで欲しい。うんざりだ。