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No.479 言葉が伝わる間柄

エッセイ「多摩川べりから」
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 アイドル活動をしていた20代の学生が、プレゼントを返送されたことに腹をたてたファンの男性によって20箇所以上を滅多刺しに刺されるという事件が起きた。ニュースではTwitterでのやりとりが取り上げられていた。
 言葉を扱う仕事をしているものとして、また「言が肉体となった」という信仰に生きる者として、これは大きな衝撃だった。もちろん今回の事件に限ったことではない。これまでも幾多の、ネットの書き込みを巡る事件が発生してきた。それらは現代日本を彩る事件として取り上げられるわけだが、そういう事情だけに留めて置くわけには行かない思いが今回も湧いてくる。
 言葉はいってみれば記号だ。言葉は氷山の一角であって、その言葉が発せられる背景にはものすごく広く深い様々な思いが詰まっている。背後にある様々な事柄を包み隠して発せられる記号を、単に記号としてではなくその思いまで含めて復元し、理解し合うということをわたしたちは日常的に行っているのだ。だから、言葉を理解し合う関係というのは単に会話が成り立つ間柄を超える。もちろん言葉を発する際には言語ではない様々な事柄──身振りとか声のトーンとか、その人の発するすべて──が、それを読み解く大きな鍵ともなる。だから一緒にいる、一緒に座るというそれだけのことに、実は深い意味がある。
 だが、言葉から音声が引き抜かれ、話す人の身振り手振りも省かれ、世界の果てにいる人とでも瞬時に、単なるテキストを通してやりとりされる事柄を「便利」「手軽」「伝えやすい」と選択してきたのはわたしたちだ。その結果、言葉で思いを伝えることはほぼ絶望的になった。思いは言葉では伝わらない。では一体何を使ったら伝わるのだろうか。
 小さな集団であること、ほとんど社会的に何の影響力も持たないような集団であることが、実は大事だったりするのではないか。
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