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No.494 礼拝あれこれ

エッセイ「多摩川べりから」
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 9月の教会学校教師会は毎年研修会を行う。テーマを決めて学習会をしたり、視聴覚教材を鑑賞したりする。今年は礼拝について堅苦しくなく学ぼうということで「礼拝あれこれ」がテーマ。
 キリスト教に慣れ親しんだ者にとって「礼拝」なんて今さら…かもしれないのだが、そうではない者にとってはまるで異文化。教会の常識は人々の常識ではない。まずそういう視点から始めることがとても大事だと思う。
 先週、捜真女学校の高校生のことを取り上げた。参加者から「教会は何をしたら高校生たちにとって嬉しいか」と質問された彼女は、「声をかけられること」と応えた。ナルホドと思った。
 教会側にそのつもりはなくても、異文化として接する人にとっては、人々を教会に合わせようとされているように感じるだろう。そんなつもりは全くないとしても、そう感じさせてしまうところで既にアウト。
 あるいは若い人に対する遠慮が働くこともあるだろう。その質問者は「高校生におじさんやおばさんが声をかけたら迷惑なんじゃないか」と心配もしていたという。しかしこれはつまりは「あなたのために声をかけないでおいてあげる」という、こちら側が傷つかないためのあらかじめの予防線だったりするのだ。それに対して彼女は「確かにギャップもあるけど、声もかけられずに放っておかれるよりは声をかけられた方が嬉しいに決まっている」と。
 昔働いていた教会で「新しい人が教会に来ますように」と熱心に祈る方がいらっしゃった。毎回そのことを祈り続ける人だった。ところが、その教会には新しい人が来ていた。現に目の前にその人がいたのだが、祈る人には目の前の人間が見えていなかった。彼の祈る「新しい人」と、目の前の人とが一致しないのは何故か。そこにとても大事なポイントがある。
 自らを省みることこそが、学びの大事な一歩。さぁ。いざ。
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