ようこそ、川崎教会へ

No.508 生き残ることの意味 その3

エッセイ「多摩川べりから」
元のサイトで完全版を読む
 わたしの故郷の教会はわたしが子どもの頃信徒だった人たちがそのまま今も現役信徒だ。もちろん年齢は容赦なく増える。既に天国に移った方々も多い。統計上は信徒がたくさん在籍しているが、昔も今も教会を実際に動かしている人たちはその一部。「教勢」という物差しで測ればこの30年は「衰退」と云うべきだろう。だが、「教会」に「衰退」という単語はあるのだろうか。その教会は今後数十年で消滅するだろうか。わたしにはそうは思えないのだ。
 教会運営上ある程度の人数が必要なのは、牧師の謝儀や建物の維持費などに実際負担金が必要だからであって、それは教会の外のあらゆる「組織」しかも維持管理が必要なものを持っている組織にはどこも同じ課題に過ぎないわけで、ことさら「教会は」と強調する類のものではない。となれば、維持管理以外のことで「教会が」「生き残る」ことをあえて強調する意味など、本来ないということではないか。
 そもそも「教会員が増える」ことと「福音が広く伝わる」ことは同義ではない。そしてキリスト教の使命から鑑みれば「福音が広く伝わる」ことこそ最重要であって、「教会員が増える」ことは下位のことだ。また「福音が広く伝わる」ことと「受洗者が増える」ことも同義ではない。バプテスマは人間の側の応答なのであって、授ける行為が「天に宝を積む」ことでもあるまい。。
 だからこそキリスト教は、「平和ボケ」だとか「中朝のスパイ」だとか「お花畑」とか云われても、いやだからこそ尚のこと福音の本流を堂々と歩けば良い。人間の行いは万人受けするはずがない。だが、神は人に受けるとか受けないとかを基準に救いの計画を実行されるわけではあるまい。ならば信じた道を堂々と歩くことこそ生き残ることの意味、いや、生きる意味だ。
 キリスト教の事業も、組織維持にも気配りはするがしかし、福音の本義を、信じたとおりに実行すること、そのあり方こそが意味を持つに違いないのだ。
もっと見る