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No.515 節分

エッセイ「多摩川べりから」
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 2月3日は節分。幼稚園では毎年豆をまく。
 たまたまその日に園児の様子を見に来られた療育センターの先生が「豆まき、やるんですか。キリスト教の幼稚園だからそういうのは無縁だと思ってました」と仰った。そういうふうに見られても確かに不思議ではないのだが、豆まきってそんなに宗教性のある行事ではないと思う。テレビなどでは有名人の年男・年女が神社仏閣で派手に豆まきを行うので、「仏教」とか「神道」とかの宗教行事と思われるのも無理はない。でもそもそもは歳神に関わる行事でもあったわけで(だから最近やたらと目立つ恵方巻という悪習も、「恵方」つまり歳神が来られる方を向いて食べるんだし)必ずしも神社で祀られているカミや合掌されている仏と近しいわけでもない。炒り豆で鬼を退治するということが「豆を煎る」⇒「魔滅を射る」というシャレだというのも江戸っ子発想で面白いし、宗教(特に創唱宗教)とは無関係に思える。むしろもっともっと素朴な、人と自然が一緒に生きていた頃の名残なのだと思うし、だからこそ幼稚園でこういうことを行うそのことに意味があるのだと思うのだ。
 高度に近代化されたわたしたちの暮らしは、人と人との熱のこもった関係を電子のやりとりに代替えさせてしまった。自然は征服/制御するモノであって、利用する素材以外の意味を持たせなくなった。脳みそだけになったニンゲンが砂漠化した世界に住んでVRとして再現される美しい南の島の浜辺に寝そべっている気になるというなんとも漫画チックなことがほぼ現実になりつつある。この子どもたちの行く先はそういう世界だ。
 だからなおさら、自分の手で餅をついたり、熱さに顔を真っ赤にして炭火で餅を焼いて食べたり、大きな鬼の絵に思いっきり豆をぶつけたりする自分の手や足や舌や皮膚の感覚を経験し、思い起こして欲しいのだ。
 だから、園長は鬼じゃないってば。誰だ、園長に豆をぶつけるのは!!
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