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No.518 明日何が咲くか?

エッセイ「多摩川べりから」
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 ご自身が主催するピアノ教室で「叱らぬ教育」を実践されている岡田幸子さんのお話しを聞いた。ピアノ教室で叱らぬ教育といってもなかなかイメージできない。ご本人がお話しくださった例で言うと例えばこういうこと。
 ピアノを習いに来ている子どもが「今日僕は工作がしたい」という。「いいよ」とずっと工作するのを認める。「今日は眠いんだ」という。「いいよ」とソファーで横になるのを認める。端的に言えばそういうこと。或いはこういうこと。ピアノを習った人にはわかるが、指は平べったく伸ばしてはならない。たまごを抱えるかのように丸くしなければならない。丸くするまで何度も何度も注意される。だが岡田さんは違う。「あら、指を伸ばしたままでそんなに弾けるんだ、スゴイね。じゃ、ちょっと丸めたらもっとスゴイかもよ。」。
 お話を伺いながら、イヤでイヤでたまらないままで6年間ピアノ教室に通った自分の小学生時代を思い起こした。習っているのは女の子ばかり、他の人のレッスンの間待っている部屋にも女の子の漫画しかなかった。レッスンもつまらなかったが、家でもまともに復習いもしなかった。思い起こしても伸びる要素はまるでなかったわけだ。良く6年(惰性とはいえ)続いたものだ。でも、本音を言えばたぶん人一倍認めてもらいたかったのだ。だが、残念ながらピアノの世界でわたしはそれを経験できなかった。
 岡田さんは、一人の子どものありのままを認めようとされている。ピアノ教室なのに工作で認められても…というのは確かに世間の評価だろう。「もっと技術を」「もっと高尚なものを」と。だが、工作しながら耳は音楽に向かっているその子の内面を、誰が正確に把握できるだろうか。われわれが目に出来るのは、単なる表層だけなのだが。
 人はあす何か咲く。だがそれを他人は断定できない。ならば「認める」という栄養をたっぷりあげるのが良いのだ。さぁ、明日、何が咲くか
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