ようこそ、川崎教会へ

No.560 クルシミマス

エッセイ「多摩川べりから」
元のサイトで完全版を読む
 牧師たちがクルシム季節がやって来た。
 クリスマスにどうして苦しむのか、それは大体クリスマスを扱う聖書がマタイとルカ、時々ヨハネのある決まった範囲しか使われないから、というのが大きな理由になっている。毎年毎年、ほぼ似たような箇所を読み、その箇所から説教を用意するのだ。そもそもストーリーは定まっていて、そこにそうそう新しい発見などないとなると、さすがにネタも尽きる、かに思われる。
 ところが、なかなかことは単純ではない。新しい発見ばかりではもちろんないのだが、繰り返すこの季節にこの決まり切った箇所を繰り返し繰り返し読んでいながら、力点の違いというか重心の違いというか、そういったことが毎回必ず与えられるのだ。
 ベースのストーリーは定まっているから、苦しいことも確かにあったし、今だって苦しまずにはおれないのだが、だがそらんじられるほどにその箇所に慣れて慣れてそれでもなお、示されることがあるというのは、考えてみれば人間に対する神の愛の本筋でもあるのだ。放蕩の限りを尽くす人間を神の側は見捨てずに必ず救うという約束を果たされるように。
 それに加えて、世界が生きて動いているということでもある。残念ながら望んでいる方向に向くことはこれまでも、これからも、ほとんど期待できないのだが、たとえ望まない方へ進んでいたとしても、それはそれでまた聖書の視点から語る必要を与えられることでもある。
 神が命を与え、神が世界を創った。だが神は、その世界をかつての楽園のようにはしなかった。そこを堕ちたのは人間の責任だった。いのちも世界も、神はナマモノとしてお創りになったのだ。だからたえず変化し、たえず動く。
 「何事もなく、無事で」を祈ることがあったとしても、神は決してそんな世界を下さりはしない。それは苦しみなのか、はたまた生きがいなのだろうか。
もっと見る