ようこそ、川崎教会へ

No.142 理想と現実

エッセイ「多摩川べりから」
元のサイトで完全版を読む
 オバマ大統領がノーベル平和賞を受賞し、その演説に注目が集まった。  もともと、4月にチェコの首都プラハで「核兵器のない世界」を目指す演説をしたことが直接の要因とされる。「世界で唯一核兵器を使用したことのある核保有国として、米国は行動を起こす責任がある」と述べたその演説に、被爆者の方々は希望を持った。しかし、平和賞受賞演説では「平和を維持するためには戦争という手段が演じる役割もあるのだ」と述べ、被爆者の方々に失望を与えている。何より、アフガニスタンに兵力を3万人増派する決断をした直後の授賞式であることが皮肉である。演説がその批判を意識したのはある意味致し方ないのかもしれないが…。  日本でも「チェンジ!」が起こって民主党が政権を取った。次々と真新しいことが行われ期待が膨らむ一方、現実との歩み寄りをどうするのか、結局のところそのラインで足踏みが続いている。  夢や理想では食えないという。だが、夢や理想なしに生きることが果たして出来るだろうか。問題は夢や理想に近づくための間、どれだけのいのちが奪われるのか──しかもその大部分は弱いが故の理不尽なしかたで──、そのことをどこまで「良し」と言うつもりなのかだろう。  人はなかなか自分を「奪われる」側に置いて想像できない。奪われる側はいつも一塊の数字で片がつけられる。丸められた数字──そこには一つひとつの人生が、いのちがあるにも関わらず。同時多発“テロ”事件で奪われたいのちより遙かに多い兵士のいのちを犠牲にしてなお、手に入れられない“平和”のために強行・継続される“戦争”とはいったい何だ。  「円」や「ドル」ではなく「いのち」を単位に「テロ戦争」を事業仕分けしたらいい。どれだけいのちを消費しても戦争によって平和を得られないなら──「得るために」と彼らは言うだろうが──それは方法が間違っているのだ。
もっと見る