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No.144 気ぜわしさはどこから

エッセイ「多摩川べりから」
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 年末の気ぜわしさは、いったいどこから来るのだろうと、この季節になるといつも思う。  年を越す習慣は、風土に密着したものだろう。「所変われば品変わる」よろしく、なんともバラエティに富んだ習慣があるものだと思う。まさに文化は風土から立ち上げられるのだろう。  だが、文化の母体である風土がここまで変化しつつある今、風土から切り離された文化/習慣が、なんだか滑稽に思えてくる。  わたしは買い物が好きなのだが、年末になるといろいろな食材を購入し、ため込もうとする。だが、近所にあるコンビニは大晦日でも24時間営業しているし、食品スーパーも元旦から通常どおり店を開けるところも珍しくない。もちろん品揃えは通常とは異なるわけだが、しかしかつてほど「年末だから」という理由がまかり通らなくなっている。それでも、体が反応してしまう。それが滑稽だ。金融機関を巡ることも今では家の机の上からワンクリック、有名料亭のおせちがワンクリックでお取り寄せ、初詣もネットで…なんていう時代に突入しているのに、わざわざ人混みのする気ぜわしさがかえって恋しいのだろうか。  大晦日に初めて夜更かしがゆるされたあの時、眠い目をこすりこすりして年が明けるその瞬間を待ち焦がれた。時計の針が24時を回っても、時空には何の変化もなかった。その事実が軽いショックだった。永遠に流れる時間の一瞬に過ぎないことを、幼い頭で悟った瞬間だったのかもしれない。だが一方で、何の変哲もない時間の流れの中に、やはりひとつの区切りを感じたのもまた事実だった。昨日とは違う。何がと問われてもはっきり出来ないのだが。  割り切られるものと割り切れないものが、ひとつの体の中で混在し分かちがたく存在する「生身」。来る年は少しそこにこだわりたいなと思う。
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