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No.147 おいらも立派な"異端"だな

エッセイ「多摩川べりから」
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 「伝道し続けること、教会を形成し続けることは、異端との闘いを抜きにしてはあり得ない。」。なんとも勇ましい発言だ。かつてのわたしだったら一も二もなく賛成していたかもしれない。  これは「実録教団紛争史」と題して16回に亘って「日本基督教団福音主義教会連合」という機関誌に掲載された文章の第16回目の終わりに書かれている。「歴史がそれを示している」と続いていわゆる未受洗者配餐問題に触れ「大変な事態に直面している」という。この方にとって「異端」とは教団における未受洗者配餐を行う教会/牧師のことを指していることは明確だ。  わたしは、かつて遣わされていた教会で未受洗者陪餐を行っていた。わたしの子どもたちは聖餐式の度にそれを受けていた。紅葉坂教会の北村牧師は、未受洗者陪餐を「公の場で言い表した」から退任勧告を受け、現在教団教師委員会が戒規適用提訴を受けて審議中らしい。わたしは「かつて行っていた」ことをこの欄に書き、当然Blogで全世界に発信しているから、わたしにも退任勧告が出されるべきだし、戒規の適用も検討されて然るべきだ。  だが、だからどうだと言うのか。そちらから切られて日本基督教団から離されるということが、わたしにとってどれほどの問題だろうか。わたしは教団から給料をもらっていないし、教会も教団から公的資金(彼らはそれを「信徒の尊い献金」と呼ぶが)の援助を受けていない。教団から切られてもわたしにとって何の意味もない──もちろん、教会から切られるならば話は別だが──。偏狭な論理を振りかざして、他者を異端呼ばわりする教団の一員でなくさせられることは、むしろ有難いことではないか。  わたしが言うなら「伝道し続けること、教会を形成し続けることは、自分との闘いを抜きにしてはあり得ない。」となるだろう。「神を我が手に抱いた/抱いている」などと自惚れることほど、伝道の妨げはないのだから。
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