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No.148 むしろ"異端"に感謝しなさい

 教会という場所も、生身の人間が集う場所に他ならない。何となく聖なる場所というイメージを持たれる方もあるかもしれないが、そういう方々には申し訳ないほど生身の場所である。
 生身の場所ということは、世間と同じ問題が、同じように問題になる場所だということだ。世俗と違って教会には高尚な問題だけが存在する、などということはない。「聖なる場所らしからぬ」とお叱りを受けるかもしれないが、しかしそれはわたしたちに関わりない。なぜなら、教会を「聖なる場所」としておかないではいられない側の、そういう人の問題なのだから。
 地方では、教会で何か問題にぶち当たる人は辛い。そこにしか教会がないということが珍しくないからだ。だがたとえば神奈川で、所属教会で問題にぶち当たったら、近くの他の教会に通い代えることができる。そして、そうできるということが大きな安心(=救い)なのかもしれないのだ。「神」などを扱うと、「自分の外に救いなし!」などと思ってみたくもなるのだが、しかし、考え方の違う場所、行動様式の違う場所があるという事実は、とても大切なことだと思う。ここではしっくりこなくても、他ではしっくり来るかもしれない。もちろんその逆もあり得る。そういうことが、不完全な人間にとっては大きな救いなのだ。
 「一致」を厳密に求めようとするならば、恐らく他者とは交われまい。親族・家族ですら、本当に一致しているかどうか疑わしい。だが誰も自分の家族を疑わない。大筋で一致していると見ている。その「大筋」が六対四なのか、七対三なのか、はたまた九対一なのか、あえて問うたりはしまい。
 一致とは、目指せば目指すほどほど遠くなるもの。「異端との対決」など、かけ声は勇ましいが、仮想敵を創ることによってかろうじて支えられているのに。どうしても自己陶酔してしまうのだろうなぁ。哀れ。