ようこそ、川崎教会へ

No.149 Living together

エッセイ「多摩川べりから」
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 「相手の立場に立つ」。人生を生きる上で大事なこととしてよく言われ、教えられ、わたしもまた自分のこどもたちに言い聞かせている言葉だが、これがまた「言うは易く行うは難し」の典型ではないかとも思われる。特に「教会」という場に於いては、なおさら。  昨日川崎教会を会場にして「女性と男性の共生をめざす集い」が行われ、「HIV/エイズは誰の問題なのか」という発題を伺った。講師の生島さんが最後に語られたのは「Living together」という発想だった。「HIV感染者もいる、HIV非感染者もいる、HIVに感染しているかどうかわからない人もいる、わたしたちはそんな集団だ、という自覚」を指すという。  集会に集った人たちは、たとえば教会でHIVポジティブだと告白することがいかに難しいか想像した。それはたとえば異性愛者ではないことを告白することと同じように難しいだろうし、なにがしかの生き難さを抱えていることを告白することが難しいことにも通ずるだろう。とすれば、教会は「生き難さ」を抱えた人が、その人のままで存在することに不安を抱かせる場所になっているということだ。  「相手の立場に立つ」とは「相手の立場を想像する」事だ。「いない」と言い切るのではなく「いるかもしれない」と想像する。そしてその人がそのままで存在することができる教会を目指すこと。わたしもまた値ないままでゆるされ生かされているのであれば、「相手の立場に立って」その人も生かされていると思いやること。それが難しいのが他でもない教会だという現実を、どのように受け止めたらよいのだろうか。  日本基督教団はますます、相手の立場に立つことを止めようとしている。「もはや対話は終わった」とアジる常議員もいるとか。「Living together」こそイエスの指し示した世界ではないか、などと問うことすら空しい。
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