「男の子が乗ったまま気球が飛ばされた」──アメリカで大騒動となったこの事故が、父と母によるでっち上げだったということで、またまた大騒ぎとなっているらしい。日本では立て続けに起こった芸能人・関係者による麻薬事件の初公判の時期を迎え、連日再び報道が洪水化している。
だけど、なんだかなぁ…と思ってしまうのだが。
目立ちたいために事件を作り上げ、大勢の人に実際被害を与えている事実は大きな問題だ。だが、そのでっち上げられた事件を報道することによってマスコミは利益を上げた。CNNテレビなど、気球を追いかけて2時間以上も生中継したのだし。さらにこれがでっち上げだったということを報道することによって、再び利益を上げることが出来るわけ。となると、被害を受けた人が怒ることはもっともだが、少なくともマスコミは感謝すべきではないか?
女優Sの覚醒剤事件に至っては、当初夫の職務質問の場所から行方不明になった悲劇のヒロインとして間断なく報道し、実は容疑者となったことがわかった時点で手のひらを返したようにバッシングを始めた。悲劇のヒロインを作り上げたのも、希代の悪女を作り上げたのもマスコミ自身だろう。ある時はあたかも一般視聴者を代表し、ある時は警察や判事の代弁者でもあるかのように振る舞う彼らは、決して自らの姿勢は反省しない。それならそれで、この女優にまず感謝の弁でも述べたらどうだろう。
本当はもっと別に伝えることがあるのではないか。テレビがこぞって「覚醒剤」を連呼することがもたらす害悪、報道が振り蒔く様々な悪意の種を、どうやって断つのか。誰が責任を持って断つのか。「自覚しない」では済まされないのではないか。
テレビというメディアが登場して半世紀。技術はまさに革命的に飛躍したが、根本的にはまるで成長していないと思わざるを得ないのだが。
三富農園のいもほり遠足に行ってきた。
土から5センチほど顔を見せている大きな芋をつかみ、女の子が泣いている。少し粘土質の硬い土に阻まれて小さな手では掘り出せないようだ。いっしょに土を掘り返してみる。泣きながら必死に土と格闘を続ける、なかなかの根性だ。ようやく念願の芋を掘り出したが、まだ泣き続け。そこで、その周辺を少し掘り返すと、次々に芋が顔を出した。「ここにもあるぞ、こっちにもあるぞ」と声をかけると、元気を取り戻してまた土と格闘を始めた。幼稚園では子どもひとりが3株を割り当てられる。年少のことり組にとっては少しオーバーワークかもしれない。でも、泣いていたこの子は掘り出す楽しさを発見して、次々と芋を手にし、最高の笑顔で3株(4〜5キロほどあったかも)を掘り尽くしたのだった。
年少の頃、土に手を出すのを好まない男の子がいた。年長になった今年その子は「幼稚園の分も手伝おうか」と言って、自分の3株の他まだ残っている畝に回ってきた。少しびっくりした。幼稚園に帰ってからお母さんにその話をすると、今年秋のシルバーウィークにおじいちゃんの家で芋掘りをしたのだという。おじいちゃんの畑はミミズも虫もたくさん出てきたが、ひるむことなく手伝って、良い予行練習をしたのだとか。あの子がそんなことをするようになったのか、と驚いた。経験を積むことによって、確実にたくましくなっていく良いお手本だった。
考えてみれば、「生活」とは経験知の蓄積だ。そして経験知は手と足と頭をうまく使うこと以外に会得できない。便利で快適な暮らしは、外側から与えられて叶うことではなく、経験知による創意と工夫がもたらすものだった。しかし今、便利も快適も買い求めるものになってしまっている。
「経験」をことさら強調せざるを得ない時代。果たして進歩なのだろうか?
幼稚園のプレイデー(運動会)が終わった。今年の秋は雨が多く、例年なら2学期早々から園外保育に出かけ、あちこちの公園で思いっきり走ったり、遊びながらゲームの練習をしたりするのだが、それがほとんど出来ないまま(もちろん、外で出来ないことは室内を工夫しながら積み重ねては来たが)で本番を迎えた。それでも、プログラム自体に何の不安も感じないのは、わたしたちの幼稚園のいわゆる「行事」に対する取り組みや考え方の違いによるのだろう。
今回も川崎小学校の校庭をお借りした。実は翌日曜日(11日)に、小学校隣の保育園が同じ場所で運動会を催す。そのため、事前に二園は打ち合わせて、わたしたちの使った白線をそのまま引き継ぐように手配した。小学校にもお願いし、スムーズに受け渡しが出来るように工夫もした。多少大げさながら、地域を巻き込んで、小学校を真ん中にいろんなことがやりとりできるようになってきたのだ。これは大きな進歩ではないかと思う。
今回も、プレイデー係のお母さんやお父さんに、朝早くから最後の最後までご協力いただいた。わたしたちの幼稚園は全ての局面でこうやって親たちのお世話になる。それが出来ることも今の時代では幸せなことだが、これだって幼稚園と家庭とが、同じ到達点を目指しているからこその話だ。もちろん今でも130名が過ごす幼稚園で隅々まで統一されているわけはないが、まだ多数と共有できている実感があるのは、幸せなことだ。
息つく間もなく2010年度の園児募集が始まる。この時期になると「到達点を共有」することが、時代と共に難しくなってきていることを感じさせられる。園児募集の時期に一番弱り果てるのは、経営上の問題というよりも実はそのことが原因となったりしている。
難しい問題に重くなる頭を、今日だけは全身で解放したのかもしれない。
10年半ぶりに母校を訪ねた。1976年4月から1979年3月までを過ごした新潟の
敬和学園高等学校である。
10年前の1998年12月、新しく完成したチャペルの最初のクリスマス礼拝で説教奉仕に赴いた。卒業以来20年余、正確には15年ほど前に初代校長の学園葬で立ち寄ってはいたが、すっかり様変わりした風景の中に、タイムカプセルのように当時の名残が残っているのが嬉しかったが、今回はさらに10年を経て、周辺の風景の変わりようにもいささか驚いた。新潟市内、お世話になった新潟教会やすぐ通り一つ隔てた東中通教会も車窓から眺めることができたし、10代後半を過ごした懐かしい新潟の町中──学校と同じように激変してはいたが──、タイムカプセルのように残っている面影を拾っては懐かしんだ。
現校長といろいろな話をする中で、高校生当時、自分は本当に何も知らずに高校生活を送っていたのだと、改めて思わされた。生徒が教育の理念を十分に自覚出来るわけはないし、学校経営にまつわる部分など想像する範囲にも入らなかった。だからこそ、考えてみれば幸せな高校生活だったのだ。誰かの、何かのおかげで、心配することなく日々に没頭できていたのだから。
もう一つ考えさせられたことがある。それは、わたしは案外新潟の地理に詳しくないという事実だった。これも、考えてみたら頷ける話ではある。だって、高校生の自分にとっての生活範囲は、学校と寮と、日曜日に出かける教会と、帰りにバスに乗るまで散策する町中、それも二筋三筋程度に過ぎなかったのだから。もちろん行事であちこちに出かけたことはあったが、それも学校からバスで目的地まで連れて行ってもらっていたのだし…。
思い返せば、つくづく幸せな時間だったのだ。無意識のうちにたくさんの人たちに、本当に支えられて過ごした日々だったのだ。