幼稚園・教会のバザーは心配されたお天気も曇りベースの過ごしやすさで、大勢の方が訪れ賑わいのうちに終了した。
「教会バザー」という「行事」に対する思い入れの違いで、準備の段階が決してすんなりとは進まなかった今年のバザーだが、だからこそ良い機会なので、いわゆる「奉仕」について少し考えてみたい。
「奉仕」はキリスト教の領域の中でも重要なものとして、恐らく教会のスタート時点から考えられ担われてきた事柄に違いない。しかしまた同時に、これが教会を悩ませ続けるものでもあるのだ。
わたしたち賢明なキリスト者は、奉仕と聞けばパウロの教えをすぐに思い出すだろう。「奉仕する者は喜んで奉仕しなさい」というアレだ。そしてその賢明さがすぐさま悔いを生む。「奉仕を喜べない自分は不信仰だ」と。だが、本当にそうだろうか。痛みの伴わない奉仕というのはあるのだろうか。奉仕に当たる際には多少なりとも私に関わる優先順位を下げざるを得ないのではないだろうか。奉仕の度に悔いが生まれるというのは、むしろその奉仕が本物だからではないのか。不信仰を悔いる必要のない、いわば「気持ちの良い奉仕」は、実は奉仕ではなく自己満足であって、それは私に関わる優先順位を全く下げていないということではないのか。
パウロはたぶん「喜んで」とあえて書かざるを得なかったのだ。他者を活かすということは、厳しく辛いことだ。だからこそそこに招かれているのだろう。簡単なこと、気持ちよいことにわざわざ招かれる必要はない。その事実があるからこそパウロはあえて「喜んで」と記したのだ。
奉仕を喜べない「自分」を、まずまっすぐに受け入れてみたらどうだろう。欺瞞に満ちた謙遜や、うわべだけの敬虔さをかなぐり捨てたその事実から初めて、わたしたちは救い主を呼ぶ意味を知るのだ。
「いざというとき戦争に行かない外国人は準会員」。これは阿部孝夫現川崎市長の言葉だ。
この言葉を逆から考えてみたい。外国人(定住外国人も含むということだが)が準会員なのであれば当然日本人は正会員ということだろう。
いろいろなところでわたしは自分の考えを表明してきているが、わたしにとって、こういう「単純二分法」ほどかみつきたくなる論法はない。阿部市長の言い分ではわたしは否応なく「日本人=正会員」に組み込まれることになる。そうなると、わたしは否応なく彼の定義の前半にも引きずられることになるのだ。つまり「外国人=戦争に行かない」の逆、「日本人=戦争に行く」の中に組み込まれる。単純二分法とは白か黒か、表か裏か、二つに一つしかない。それ以外という選択肢はない。
ということは、「戦争に行かない日本人」というカテゴリーはあり得ないということだ。わたしは喜んでそのカテゴリーに入ろう。だが、阿部氏のカテゴリーにはない。そうであれば、わたしも安心して所属できるカテゴリーを阿部氏に基本姿勢を変えてでも作ってもらうか、そうでなければこういう市長には辞めていただくほかない。
「中央の小泉、川崎の阿部」。ワンセンテンス・ポリティクスをうまく使ったつもりのお二人。だが、ワンセンテンスは決して政治をわかりやすくしたのではない。劇場化しただけだ。そしてその劇場の聴衆は、やがてもっと確実なものへと目を向けるようになる。大衆は馬鹿ではない。単純二分法やワンセンテンスを武器にする者たちは、やがて大衆から疎まれる。「現実」とはそれほどには単純ではないからだ。
大衆を支配しようとする者たちは、あの手この手を使う。だが被支配者は選挙という「最悪を避ける」力を行使して反撃する。川崎は今がその時。
テレビのコマーシャルに「環境」や「エコ」が取り上げられることが多くなった。自動車メーカーのD社などは自虐的に「最近、エコカー減税のCMばかりでもうウンザリというあなたに」というコピーまで登場させた。何という逞しさだろうと思うのだが、それは脇に置いて。
エコといえばどうしても自分のライフスタイルに対する見直し・改善・回心が必須だと思うのだが、テレビで流れる「エコ」にそんな迫りはない。口当たりよく爽やかなのだ。購買意欲を刺激するのが目的なのだから、牧師の説教のようではイカン!ということだろう。だが、である。
簡単に言えばつまり、エコで商売が成立するということだろう。麻生総理はCO2の8%削減に言及した時、国民の負担増に触れたが、国民は苦しんでも、そのことによって儲かる仕組みを持つ階級が確かに存在するということだ。
誤解しないでほしいのだが、わたしは「儲かること=悪」だなどとは考えていない。商機を敏感に感じ取り努力して儲けることに何ら問題はない。だが、たとえばその途上に「国策」などという後押しが使われるなら、それはフェアではない。ところが、日本のエネルギー政策は「国策」であり「国益」だと吹聴された単なる「依怙(エコ!)贔屓」ではなかったか。
水力発電が石炭火力発電に切り替わり、石油に取って代わり、ついには原子力に至るこの変遷について、誰がどう説明責任を果たしてきたか。誰もしてこなかったのではないか。国民は「それが国策だから」という理由だけで常に負担を強いられて、見えないところでありったけ儲ける者を生んできた。
少なくとも、特定の集団を贔屓するエネルギー政策は存在するが、人類全体を考えた政策は存在しない。エコ・ブームはその延長に取り込まれている。
我々の善意(たとえば「地球に優しく」)が吸い取られる仕組みを「仕方ない」「国策だから」と、またしても諦めて良いのだろうか。
「8月の総選挙は史上初」「一党が308議席を獲得したのは史上初」と、初物づくしで真夏の総選挙は終わった。民主党の躍進は事実上の選挙戦となった40日間の世論調査で一度も変わらなかったが、結果だけを見れば「320超」には至らなかった。むしろ、意外に自民党も復活したという印象がある。
本格的な政権交代は初めてなのだから、想像のつかないことが多いのは確かだろう。これからどうなるのか、本当のところ誰にもわかりはしない。ただ、「これまでと同じではダメ」という意思表示が示されたのだ。では代わりに何が出てくるのか。わたしは不安より興味を覚える。
選挙後には様々な評論が賑わった。その中で「小選挙区制の恐ろしさ」に言及したものがあった。得票数だけを見れば自民・公明対民主に圧倒的な開きはない。だが、小選挙区は僅差でも全体の色が変わる恐ろしさを持っている。1996年以来それをいいように操ってきた政権・与党が今になって「問題だ」などと発言したら、それこそ見識が問われる。だが、確かにその恐ろしさ、つまり民意をいかに正しく反映させられるか否かについて、真摯な議論が積み上げられて良いのではないかと思う。ただ、その議論を議員が行っては意味がなくなってしまうが。
さて、10月には川崎市長選挙がある。衆議院での圧勝を受けて民主党は地方首長選挙で自民・公明との相乗りを止めるらしい。「中央の小泉、川崎の阿部」のスローガンで2選を果たし、3選にも立候補表明した阿部孝夫氏は、これまで自・公・民・社の推薦を受けていた。その選挙協力体制に対し、民主党本部が待ったをかけたわけだ。衆議院選挙でさえ、自民党公認者が「自民党」の看板を後ろにさげたくらいだから、阿部氏も当然早くから「市民党」「市民派」を強調していたのだが、さてどうなることだろう。
選挙とはもともと魑魅魍魎の渦巻く魔界ではあるのだが。