週末に、立て続けに2つの展覧会を見た。一つは幼稚園の梅崎芙美子さんが参加されている「真美会」の展覧会、もう一つは幼稚園の先生たちのために学びの会を主催してくださっている吉田きみ子先生の金工レリーフの個展。「絵画」や「金工」という表現手段には疎いのだが、それに触れることによって降り注がれるような「感性」のシャワーを感じた。ストレスがすーっと引いていくような感覚だった。
梅崎先生は「絵はどれだけ削るかにかかっている」と言われたことがあった。これはたとえばわたしが取り組む「言葉」という表現についても同じだと思った。説教などは、伝えたいことを余さず盛り込んだら収拾がつかなくなる。しゃべる方は言いたいことが全部言えたら気持ちいいかもしれないが、聞く方にとってはたまらない。大事なことが伝わらなくなってしまうだろう。むしろ、どれだけそぎ落とすか。そぎ落としそぎ落として、そこに浮かび上がってくるものこそ、最も伝えたいことなのだと思う。それが唐突にではなく、きちんと順序を追って伝えられるかどうかに、語る者の力量が問われるわけで、未だかつて十分納得できたことは少なかったように思える。
それでも、そんな不十分な表現を忍耐をもって聴き続けてくれる聴衆がいてはじめて、わたしたち牧師は育てられてきたのだ。新卒で現場に出る牧師たちの一部に、強力な権威主義に凝り固まった者たちがいると聞かされるが、彼らは本質を知らなすぎる。またそれを良しとする「神学教育」なるものも問題だ。神学校に「真理」があるなどとまさか自惚れているわけではあるまい。真理はいのちの場にこそある。学校が「神学」という営みの「いのちの場」であればその点では真理もあろうが、ただそれだけだ。不変の真理が机上から生み出されるなんてことはないのだ。
と、自戒しながら、さて説教の準備は?
同窓会役員として初めて学校法人鶴川学院理事会・評議員会を傍聴した。
理事会・評議員会は法人の財政はもとより、人事を含む運営について報告を受け、討議し、決済する。神学校の学生であったり講師であるだけでは知ることもなく知る必要もないことではあるが、そういう立場でいうところの「裏情報」つまり、「あぁ、そういうことか」や「こうなっていたんだ」ということがやりとりされている場である。
鶴川学院は農村伝道神学校と鶴川シオン幼稚園とを経営している。そしてそれを統括する本部事務があるわけで、たとえば決算関係の書類は3部あることになる。それぞれの経営実態によって、あるいは管轄する都道府県によって理事会・評議員会の中身や進め方に違いがあって、それなりにおもしろい。おもしろがってばかりはいられない重大なことも含まれるのだが、それはそれ、傍聴の身としては全部含めて「おもしろい」としか表現できない。
川崎頌和幼稚園の経営について、つまり理事や評議員として、川崎教会の役員をはじめ教会員が加わっていることは、やはり大事なことだと改めて思った。「経営責任」を考えると緊張を強いられる事柄かもしれないが、それは現場を信頼してもらって、むしろこの地域に責任を自負する、広い意味での「宣教」のパートナーとして、教会用語や教会法ではなく世間一般の法と用語を用いて「宣教」を語る場であるのだから。
さらに考えると、教会の役員会に教会員の誰でもが連なってみることもとても大切なことなのかもしれない。それほど高度に専門的なやりとりがなされているとは思わないし、でもそれぞれの立場で真剣に「教会」と「宣教」について考え語り合っている場なのだ。だからこそ、教会の「裏情報(!?)」に誰もがもっと積極的に触れてみたらいいのではないか。
すべての人に、聖霊の賜物が与えられていることを信じる群れとして。
前まぶね教会牧師、中原眞澄さんのお連れあいが亡くなったという連絡が入って、昨日夜、まぶね教会で行われた前夜式に参列した。
お連れ合いのよし子さんとはこの時が初めての対面だった。式次第の略歴には「小学校5年の春から、右足に障害が出始める。」とあった。そして「出始める」の言葉通り、その後の30年以上に亘って様々な腫瘍と闘うことになる。脊髄腫瘍、後腹膜腫瘍、脳腫瘍、聴神経腫瘍…、最期の一週間は食べることも飲むこともできなかったという。
いつ召されてもおかしくないと言われる中で、しかし彼女は「わたしには夢もあるし希望だってある」と眞澄さんに語ったという。中原牧師は「こういう状況の中で、夢を語らせ、希望を語らせるものこそ『神の栄光』そのものではないか」と、その式辞の中で語った。亡骸はもうこれ以上そぎ落とすところがないほど。いわば最期の最期までいのちを生き切った人の姿だった。
友人の一人はよし子さんがただの純粋ないい人だけだったら、彼女を襲った苦しみがとうに彼女を奪っていったに違いない、と話された。芯の強さや負けず嫌いが彼女をその最期の瞬間まで生かしたのだろう、と。生前の彼女を全く知らない者にとっても、そうかもしれないと思わせるに十分だった。
そのすべてが神の導きだと知っているつもりでも、よし子さんのようなこともあれば、逆に金子さんのように突然のこともあるのだ。いのちとは、まさに人間の手ではどうすることもできないものだと改めて思わされる。かといって、その時がどの一瞬に来ても良いように、一瞬一瞬をまっとうに生きるなんていうことも、考えただけで気が遠くなってめげる。
いのちを巡る問題は、マジで解決のつかない問題なのかもしれない。だからこそ、それは「信仰」の領域なのだろう。そして、信じて生きることのできるありがたさを、今回もまた知らされることになった。
その人の家は駅から歩いて約5分ほど。静かな住宅街の中、街路樹の美しい緑と、学校のグラウンドから聞こえる白球を追う少年たちの声が出迎えてくれた。5階建ての最上階。戸数を減らしたぶん幅広い廊下の突き当たりに本格的なベランダ菜園を設えたその人の家があった。お気に入りの富士山は霞の向こうに見えなかったが、揺蕩う多摩川が眼下に広がる。
彼女がその元で息絶えた電話機が置かれているリビング。出窓に遺影を飾り、その周りに鮮やかな花が多数飾られ、小さな祭壇が出来上がっていた。部屋にはご遺族、教会関係の20名ほどが集まった。
金子菊恵さんが召されたという知らせは9日の午後突然に入ってきた。飛び上がるばかりに驚いた。12日の家族葬に参列することを許していただき出かけていった。葬儀の最中も、いや火葬場で白くなった骨を拾ったその後も、亡くなったことが信じられないままだった。
ご遺族の許しをいただいて、ご遺影を預かった。その小さな箱を抱え再び駅まで歩き、電車に乗る。ご家族が「年の割に足が速くて、子どもの方が置いて行かれそうになった」という話を思い起こしながら、コロの付いたカートを引いて日曜日の度にこの道を通ったのだな、と思った。彼女を偲びながら川崎までの電車に揺られた。晩年は体調も決して万全ではなかっただろう。決して弱音を吐いたり、辛い顔を見せない人だったが、だからこそその分、体はきつかったのではないだろうか。それを良く最期の最期までお一人でこの道を通い、電車に揺られたのだなと思ったとき、初めて彼女が召されたことを実感した。
突然の悲しみだった。だが、思い起こすのは不思議に、最後にお会いした4月26日の礼拝後に、みんなと談笑するあのお顔であり、そのときの会話だ。そしてなんだかあの日、しっかりお別れを言ったように思えてくるのだった。