キリスト教保育連盟神奈川部会の園長・主任研修会で招かれた講師は、「日本の幼児教育の基礎を築いたキリスト教」と題して、近代日本の教育、わけても幼児教育・保育の分野においては欧米からやって来たキリスト教の司祭・修道士・修道女・宣教師などによって開始され、明治期に国によって始められた官立・公立幼稚園もその指導者の殆どがキリスト教徒若しくはキリスト教の涵養を受けた人物であったと語り、それゆえ自信を持って現代のキリスト教保育を担っていこうと話された。
確かにそれは歴史的事実なのだろう。だが、わたしにはもう少し別の関心があった。明治5年は学制の始まりの年であるが、同じ年に徴兵制も始まった。これらは一見別々であるが、当時の政府が国民をどのように考えていたのかを空想させる。普く教育を施すことは、即ちそのまま戦場に送るに優れた方法だったのかも知れない。しかし、そういった人間観に真っ向から対立したのがキリスト教の人間観だったのではないだろうか。だが彼らはだからといってそれを表立って宣伝することなく、熱い思いを内に秘めて教育の現場で目の前の子どもたちの現実にのみ集中していったのではなかったか。
もしわたしたちが今、歴史に学ぶ必要があるとすれば、「かつての栄光を再び」とばかり安穏とした夢を描くのではなく、内に熱い思いを秘めて志を高くあげ、日々のことに集中していったその姿にこそ学ぶ必要があるのではないだろうか。いわんや「プロテスタント宣教150年」と言われるこの年に、単なる打ち上げ花火やお祭り騒ぎで自己満足を得る「伝道集会」などしている場合ではないだろう。
日本の教育の基礎を築いた先人たちは、キリスト教を宣伝するためにしたのではない。そうではなく教育のために、ひとりの子どものために、その現実のためにしたのだ。その事実にこそ今謙虚に学ぶ必要があるだろう。
新年早々飛び込んできたニュースはイスラエルがガザに地上部隊を侵攻させたという、なんとも重苦しくなる話題だった。
中東問題はなかなか理解できない難しさがある。中東に限らず、世界情勢は「普通の」感覚しか持ちえない者にとってどんどん難しくなっていくように感じられる。それにしてもわたしたちのその普通の感覚で言えば、ほかならぬ聖書の世界を舞台にして、戦争が止まないことが辛く重苦しいのだ。
こういった問題を解説する情報はたくさんある。それらを読み進めているとどうしてもある部分で拒否反応が出てしまうことに気づいた。その原因が何なのか、なかなかつかめなかったのだが、ようやくわかってきたことがある。
たとえば経済の問題で言うところの「経済戦略」などでは拒否反応が出なかった。それは、この種の「戦略」に人間のいのちが問題になっていないからだった。もちろん、経済活動によっていのちが脅かされることが全くないわけではないし、昨今の世界不況の状況はそのまま、人間のいのちの問題であることが浮き彫りにされているのではあるが、しかし所詮はモノの売り買いに関わることである。第一義にいのちの犠牲を伴わない。
しかし、中東問題に絡む世界情勢の解説を読むと、そこで読み解かれる「思惑」は、まるで人のいのちなど眼中にないかのようだ。どういった戦略で空爆しあるいは地上に侵攻すれば、どこの勢力が味方になり有利に交渉に持ち込めるだの、この状況が続けばこの思惑は達成できないだの、「動き」としての世界情勢は確かにわかる。だがそこに、その思惑達成のために踏みにじられるいのちへの思いはない。ボードゲームのように語られるその語り口に、たまらない違和感を、拒否感を感じたのだった。
国(=単なる政治体制)の存続のためにいのちが犠牲にされること。その愚かな構図を、我々は未だに受け入れなければならないのだろうか。
年末にガソリンスタンドに出向いて驚いてしまった。なんと、レギュラーガソリンが1リットル当たり96円、現金の場合さらに2円引きとなっていた。先週の、2008年最後の「多摩川べりから」に、この年の一字が「変」と決まったことを取り上げたのだが、正直言ってそれに「急」を加えなければこの驚きの正体を言い表せないのではなかろうか。夏ごろの価格からみたら半値と言ってもちっともオーバーではない。あの騒ぎは一体何だったのだろう。
何事につけ、旧年中の出来事はあらゆる意味で「急変」だった。それは人間の感覚と相容れないスピードだった。それを表して「システムの暴走」と書いたのだが、さて年が明けて政治上の戦術に例えられる「牛歩」の丑年。社会システムは人間らしいスピードに落ち着くことができるだろうか。あるいは非情なスピードを維持、加速しようとするだろうか。
クリスマスを前にわたしたちにはアドヴェントの期節がある。ろうそくに一つずつ灯をともしてその日を「待つ」期節。現代は待たなくて良い時代。待つことを極力少なくすることが「便利」であり「価値」らしい。携帯メールが普及して、返事を待つのが苦痛になった。ホンの数秒が待てない。かつてことばのやり取りは手紙だった。返事は早くても一週間ほど経た後だった。その「待つこと」が苦痛ではなかったのに、これは一体どうしたことだろう。
からだが、心が、スピードに溺れてしまった。そして今、そのスピードに振り回されている。チャップリンの名画「モダン・タイムス」が、21世紀の今、現実のものになってわたしたちの生活を脅かしている。
振り回されないことはもはや不可能なのかも知れない。今を生きる以上、そういった便利なものと無縁の生活は最早送れまい。だからこそせめて、全うに生きる道を求め続けよう。自由な生活を求めて旅に出た「モダン・タイムス」のチャップリンと少女のように。
2008年を表す一字が「変」だという。確かに an accident、an incident、a disaster、 an emergencyに満ちた一年だったかも知れない。あまりにいろんなことがありすぎて、しかも短期間に大きく変化したために、まるで随分前のように思ってしまいそうな、あのこともこのことも浮かんでくる。この一年で4~5年分も年を重ねたかのようだ。
変わっていくことを受け入れるのはなかなか難しい。変わらないでいてほしいという願望だけでなく、変えない方が無難、変わらない方が見通しが利くからでもあろう。だが実は、変わろうが変わるまいがどちらにせよエネルギーがいるし勇気が必要だろう。変える勇気と変えない勇気と、どっちがより勇気が必要かなど、そもそも不可知。
問題は、変わってゆくこと──そのスピードや質──を、だんだん人間が制御できなくなってきていることではないだろうか。一頃「想定の範囲内」などと嘯くことが流行したが、特に今年の「変」は想定し得た者が果たしてどれだけいたのか疑問。以前にも書いたが、この年頭にトヨタは売上世界一と言われていたのだ。その急激な変化は当人たちにも予測不能だったのだ。
システムの暴走とでも呼ぶべきか。自分でつくりあげて、その上に乗っかって「わが世の春」を謳歌していた人間が、そのノリモノの暴走によって蒼くさせられているような。
良くも悪くも近代はプロテスタンティズムに乗っかっていた。システムの暴走はプロテスタンティズムの終焉を意味するのかも知れない。トップを明け渡すことになんら未練はないが、終焉に向かうことの意味は良く良く考えなければならない。この「変」は、わたしたちが神に対して心から罪責を告白することを求めているのだ。せめて、まともな終わり方をこそ目指そうではないか。