わたしが川崎教会に就任した時、教会ホームページの検討が役員会で継続されていることを知った。現在はペンディング中であるが、昨年秋に「川崎教会の歩み──百年を超える神のみちびき」が発行されて、これこそホームページに納めるべきコンテンツだと思い、編纂委員の松島さんに電子化されたものがあるかどうか伺った。その時に松島さんがある懸念を話してくださった。それが今回「横浜青年」(YMCA NEWS)の中に取り上げられている。
その懸念とは…。今、電子化されている「川崎教会の歩み」はCD-Rという光ディスクに書き込まれている。これをディスクのまま保存した時、おそらく50年程度で経年劣化するかもしれない。しかしそれ以上に心配なのは、50年後にCD-Rという規格が生きているかどうか。松島さんはこの25年間の記録媒体の変遷を見ると、どうも“紙”という媒体が一番安定しているのではないか、と仰るのだ。
確かにそれは実感する。わたしも身の回りにパソコンを置かないでは仕事ができないのだが、そこでつくられるさまざまなコンテンツを保存するHD(ハードディスク)には、何度泣かされて来たことか。突然前触れもなく使えなくなることしばし。安全のためバックアップは欠かせないが、それを記録するCDやDVDがこの先永久に読み出せるとは保証できない。子どもが生まれた頃得意になって撮影した8mmビデオテープや、独身貴族時代に買いそろえた貴重なLD(レーザーディスク)の映画など、今や再生する機械が消滅してしまっている。技術革新でより高性能高容量の媒体がさまざま生まれるが、むしろその技術革新により、わたしたちは却って信頼できない状況が日々生まれているのだ。何という皮肉なことだろう。
ではどうするか。今のところインターネットという何の実体もないところに預けるか、あるいは何枚もバックアップするか。これまた何という皮肉。
川崎市に平和無防備条例制定を請願する署名活動をいよいよ目前に控え、「成功させる集い」が19日に明治大学生田校舎で開かれた。講師は日本カトリック正義と平和協議会会長の松浦悟郎神父と劇作家の井上ひさしさん。お二人はそれぞれ、「平和無防備都市宣言」の意義と、それに取り組むことの意味をお二人それぞれが置かれている場から発言された。
無防備地域とは、ジュネーブ条約第一追加議定書第59条で定められている。戦闘員が撤退し軍事施設が撤去されていること、軍事施設を使った敵対行為が行われていないこと、住民が敵対行為を行っていないこと、軍事行動支援活動が行われていないことの4条件を満たしていれば「適当な当局」が宣言できるとしている。
これまで全国22都市で署名活動が取り組まれ、どこでも法定数以上の署名を集めた。しかし、どの自治体でも条例案そのものは否決された。その理由が「国の専権事項」「有効性がない」の二点だという。
しかし、考えてみれば、戦争を始めるのはいつでも「国」ではないか。日本国憲法はそれを保持していないが、交戦権を持つのは「国」なのだ。そうであれば、戦争しようとする「国」自らが「無防備」を宣言することは矛盾している。むしろ「適当な当局」である地方自治体こそが、自分たちの住民の生命と財産を守るために宣言することこそ意味がある。また、仮に有効性で言えば、自治体が挙げているさまざまな「…宣言」も同じように有効性を考慮するべきで、ことさらこの宣言案にのみ言われることは的を射ていない。
第2次大戦の全死者のうち48%は民間人だった。それが朝鮮戦争では84%、ベトナム戦争に至っては95%が民間人犠牲者。戦争は市民をこそ殺す。だからこそ戦争には反対だ。
わたしたちは実に瀬戸際に生きているのだ。待ったなしなのだ。
間もなく4月15日が巡ってくる。
1945年4月15日。今から63年前のその日は朝から快晴の日曜日だった。川崎臨海部には軍需産業の中核工場が多数あった。にもかかわらず川崎はそれまで空襲されることはなかった。大本営がいかなる発表をしても、市民には南方での敗戦の報が帰還兵から伝えられていたらしいし、東京や京浜地区にたびたび襲い来る艦載機・爆撃機が、戦況が押し詰まっていることをいやおうなく知らしめていた。だから、近いうちには川崎も、という差し迫った緊迫感はあっただろう。しかしこの夜の空襲は、市民の切迫感を遥かに越える甚大な被害をもたらした。ようやく白み始めた空の下は一面の焼け野原状態だったという。死者約1,000人、負傷者15,000人、罹災人口10万人。集合としての数字は大雑把すぎる。これらの数は「1」の積み重ねであり、「1」にはそのまま「1」のいのちが、人生があったのだ。それが一夜にして激変する。これこそ戦争の実相だ。
わたしたち夫婦は東北と北海道で幸せな幼少期を過ごしてきた。知識としては原爆や空襲を知っている。だが、僅か8年間山口県に住んで、63年前の出来事にいまでも直結するおびただしい人たちの姿をかいま見た。二世三世が、63年前の原爆に今なお追いかけられている姿を知った。知識ではなく現実の姿だった。
今日、川崎市は63年前の出来事などなかったかのように平和な一日を送るだろう。死者約1,000人の関係者たちもそれぞれ年老い、すでに33回忌を遠く隔ててしまった。血縁のない者たちの記憶から薄れていくのは避けようがないかも知れない。それでも、たとえ知識としてであっても、出来事を記憶し続けようと思った。
63回目の、最も近い日曜日がやって来た。
教会総会に向けて、さまざまな資料を作成する時期になった。
昨年は転任直後ということもあって教会総会を5月に開いたが、それでもわからないことだらけで、準備にせよ総会そのものにせよ何となく中途半端だった。今年はようやくほぼすべてを見通せる中で準備に当たっている。とは言っても、たくさんの資料を上手に整理する几帳面さは持ち合わせていないので、手許にある週報と役員会記録が中心。それでも面白いことに、ひとつの出来事を記すと、その時の情景がありありと思い浮かべられるのだ。もちろん、記憶が長く止まる保証はないし、今後もその年ごとにその状態が継続出来る保証はないのだが、それでも「今、リアルに」思い浮かべられるという儚い心情を大事にしていたいと思う。
以前、神学校の後輩に生意気なことを語った記憶がある。「わたしたちは『自分の名前による福音書』を書き続ける仕事を選んだのだ」と。教会の一年をふり返るこの季節になると、そんな若気の至りの言葉にも一縷の真実味があったな、などと思えてくる。確かにわたしたちは、神話や伝説ではなく、今、この時に、この場所で働かれる神の出来事を目の当たりにする民だ。それゆえに「総会資料」はたとえば株式会社の株主総会資料とはおのずと違ってくるだろう。このわたしに、このわたしたちの教会に、生きて働かれる神の出来事を、受け止めつつ歩んだ者たちの記憶であり、それを留めた記録なのだから。
もちろんそのあゆみは無謬ではないし、問答無用の正義を体現しているわけでもない。問題もあり課題もある。重大な疑義も生じるかも知れない。それでも、そのすべてをひっくるめてなお、やはり神の出来事の記録なのだろう。そんな思いで準備を進めている。