土曜日に立冬を迎え、季節は冬に入った。教会の暦では22日(第4日曜日)が「終末主日」で一年の最後の週を迎える。
先日我が家の犬たちの散歩で歩いたいつものコースで、その途中にあるコーヒーショップからいわゆるクリスマスソングが聞こえてきた。おそらく今シーズン初のクリスマスソングだ。
散歩コースは映画館が主体のエンターテイメントゾーンで、イタリアの街並みを想わせるようになっている。尤もイタリアになんて行ったことがないので、本当にそうなのかどうかは判断つかないけどね。
そういう商業ゾーンなので、四季折々の大きなイベントが歳時記のように目に映る。その最大のお祭り(?)が実はハロウィン。テレビの話題では渋谷が聖地のように扱われるが、川崎のハロウィンパレードはなかなかド派手でエントリーする参加者も最大級らしい。しかしそれも、今年はコロナで一変してしまった。パレードは中止。その分お家で仮装してネットで盛り上がろうという企画に変更となった。当日夜の散歩では、仮装していたのは僅かに1グループ3人だけだった。
この一大イベントが終わると、それこそ一夜にしてクリスマスモードに変更となるのだけど、今年はその切り替えも目に映らないほど密やかだった。そしてある日、コーヒーショップから聞こえてきた音で、そんなかつての日々(と言うかつい昨年までのこと、だけどなんだか遠い昔のよう)を思い出した。
シーズンでいちばん早いクリスマス礼拝は、キリスト教保育連盟神奈川部会。12月第1週の水曜日が定番。しかしそれも、今年はオンラインで行われるという。全く想像出来ないのだけど、それがこれからのニューノーマル(新しい生活様式)になるのだろうか。困ったことに、そのスタイルで一番最初の説教者が私になっちゃったのだけど…。
横浜DeNAベイスターズから特別なお誘いのメールが来た。10月27/28/29日の対巨人戦チケット割引販売、その名も「おかえり!ハマスタ」。サイトを見ると22日の段階ですべての席に余裕があった。
近年ハマスタはチケットがとりにくく、観戦の機会がめっきり減った。加えてコロナによる定員減。これは最後のチャンスかと思ったが、数日前テレビで観た黒岩知事の記者会見が頭を過った。ベイスターズ戦でハマスタに観客を動員して、コロナ感染対策の実証実験をするとかナントカいうヤツ。調べてみたら実証実験は30日からで、この「おかえり!ハマスタ」は関係がなさそうだったが、結局日程が取れないために今回購入は見送った。
「実証実験」とは仰るが、人体実験をイメージ
させる。「Cocoaなどのアプリや会場の人がどのくらいマスクをしているか画像で把握したりする機械の実験」だと言うのだが、チケットを買って観戦する人は全員例えばPCR検査で陰性が確認されているのだろうか? それならば「実証実験」と呼べるかも知れないが、そういう担保なしでは「人体実験」に堕ちてしまうだろう。そしてちょっと考えればわかるが、入場者全員がPCR検査を受けることなど物理的に時間的に不可能なのだ。
この実験は来年開催される(のか、本当に?)東京オリンピックに備えたもので、ハマスタはそもそも野球やソフトボールの主会場でもあるので、重要な意味があると知事は熱弁されていた。政治家が熱弁する場合には「文字通り」と「文字のウラ」の二面があるのが定説。現政権の(軍事的にも)強硬な姿勢と本当に無関係なのかつい疑ってしまう。ある種のビッグデーターを無担保に権力に掌握させることになりそうではないか。
さて、わがベイスターズはこともあろうに(!)巨人相手に
劇的な試合を三日間も展開し、巨人の優勝を大いに遅らせた。やっぱり行けば良かったなぁ。
アメリカ合衆国司法省がGoogleを日本で言うところの「独禁法」違反で提訴したというニュースが新聞やテレビのトップ扱いで流れた。1998年にマイクロソフトを提訴して以来約20年ぶりの大型提訴だという。
そのニュースを見ながら、私は全く別のことに目が奪われた。「米国司法省」ビルがアップされたその入口にあるプレート。そこには「U.S. Department of Justice」と書かれてあったのだ。
いや、司法省と翻訳されているからまるで裁判所のように思えてしまうが、むしろここは法務省だ。行政機関。だからこそプレートには「Department」と書かれているのだ。ところがこの「Department」を見ちゃうと、わたしの心にまず浮かぶのは「百貨店=デパート」だったりする。しかもそれに続いて「Justice」とまで書かれている。いや、これだって何もその通りだけど、Justiceといえば当然のように「正義」とか「公明正大」とかがまず浮かぶのであって、「司法、裁判、司法官」等をイメージはしにくい。だからあのニュースで目を奪われてしまったわたしは「U.S. Department of Justice」が「へぇ〜、【正義】のデパートねぇ」という、頓珍漢な奴。
頓珍漢には違いないが、せっかくだから少しだけ調べてみた。米国司法省の義務は「国民の利益を守り、公正で公平な権利を保障すること」だという。このところ我が国では、総理大臣がご自身のポスターにわざわざ「国民のために働く」などと書かなければならないほど、政党も内閣も(政治家も)「国民のためには、働かない」組織になってしまっていたわけで(いや、オイラが言うんじゃないよ、総理ご自身がそう言ってんの!)、行政機関の本来の義務が「国民のため」と明記されている米国をちょっと見直したりもした。
まぁ前総理は「(総理とは)森羅万象をつかさどる者」と述べたあたり、ハァ?と目がテンになったんだけどね(ちなみに訂正されてないよ)。

2015年12月、野村総合研究所がイギリス・オックスフォード大学と行った共同研究で「10~20年後に日本の労働人口の約49%が就いている職業において、AIに代替することが可能との推計結果が得られた」と発表。「約半分の仕事がなくなる」だとか「どの職種がなくなり、どの職種なら生き残る」という分析が多数流れ、騒がれた。
49%という数字が衝撃的だったことは確かで騒がれた必然もわかる。だけどやはり「人」「コミュニケーション」を全く不要とする職種なんてそんなにないわけだから、衝撃的な数字が現実になるとは思われなくなっていった。
2020年、コロナの時代になって「がんばるなニッポン」が象徴するライフ・ワークスタイルが始まった。ICTが活用され働き方が変わるのではないかと期待もされたりする。通勤が不要なら環境の良い地方で暮らせるみたいなことがコロナの暗雲漂う中でちょっとした明るい話題にもなっている。
だけど、5年ほどの期間をおいて引き起こされたこの二つの出来事は、実はとても関連しているように思えてならない。
リモートでする仕事なんて、それこそAIに代替されるのではないのか。社会全体がコロナの影響を受けているのは事実だが、実はコロナが、やらないこと・やれないことの「口実」に使われているのではないのか。
ある物流会社のCMコピーに「出来る出来ないの話しはしない。どうやったら出来るのかだけを考える。」というのがある。コロナの時代に「やらないこと・やれないこと」の理由は掃いて捨てるほど溢れている。だが、だからこそ「どうやったら出来るのか」をまず考えなければならないだろう。口実や言い訳にしてはならない。
宗教はAIに代替出来ない。それはやはり「人」「コミュニケーション」そのものだからだ。身体性──その回復、復権こそ今一番必要に思うのだが。